ぼくは、帰らなくてはいけないんだ。ここにいてはいけないんだ。いることを許されていないんだ。抵抗できない郷愁がぼくを握まえて放してくれないんだ。
けれど、もし、この世界と和解することができたらなあ。
彼が妄想患者であるのは明らかだったのだけれど、誰もその言葉に込められた気持ちの強度と苦悩を疑うことなどできなかった。彼が一体何処に帰還しようとしていたのか、わたしたちの誰も遂に知ることができなかった。どうにかして、同じゆめを見ることができたらどんなにかよかっただろう。
云ってしまったらすべてが台なしになってしまうんだよ。誰かに話したら、ぼくはもう帰れなくなってしまうんだ。云ってしまったら、ぼくはあの場所のことを忘れてしまうんだよ。
彼は決してその不在の場所について話そうとはしなかった。病理学的には、幾らでも説明のしようがある。その場所は抽象的な、郷愁の対象と云う観念に過ぎなかったのだから、と云う風に。けれど、ソレダカラなおいっそうわたしたちはその場所を彼が覚えていることを信じたのだ。もし、夢を作ろうとするなら、むしろ人は理想の世界像をさまざまな場から継ぎ接ぎにして具体的な形象を構築しはしないだろうか。彼がそれをしなかったのは、この世界の言葉で語り得ない場所をたしかに見ていたからに違いないとわたしたちは思わずにはいられなかった。けれど同時にわたしたちは彼が妄想患者であることも、他の誰よりも知っていたのだ。
花をあげるよ。この花が萎れてしまうまでは、この花のことを憶えていてくれるだろうから。
彼が投げやりな口調で云った言葉の真実さを、彼が別の秩序の中で生きていると知っているわたしだからなおさら、どのように見つければよかったのだろう。不意に彼がその言葉を口にしたときの思いが分かるような時があるのだけれど、こんなにも離れて初めて伝わった何かが有るように信じられる時があるのだけれど。
父よ、ここは寒い世界ですね。
博士は怒鳴ってばかりだった。博士は黙ることにすら耐えられなかった。無数の理論が博士の手を擦り抜けた。彼の前では博士は駄々をこねる幼子のように見えるときさえあった。彼は無関心で冷静に見えたけれど、博士の声をいつも聴いていた。彼が博士を父と呼んだのは、その一回限りだった。わたしは庭で暖かい日の下でその言葉を漏れ聞き、もはやこの世界の何者も彼を押し止どめることはできないのだろうかと思った。
陽光が降る滴のように庭にあふれていた。
そうさ、ぼくはおかしい。ぼくは精神病だ。ぼくの考えは間違っている。ぼくは帰らなくてもいい。ぼくはこの世界で生きて行ける。ぼくは夢など見ない。
わたしは終わりを何時迄も延期させることはできないのだけれど、できることなら任意の一点で幸せな予感のままに語りを中断できたらと願う。そして亀裂が風自体を侵食し、語られた言葉のすべてを凍りつかせる、あの一瞬に再びたどり着くのを回避できたらと。彼が自分を精神病だと宣言するときほど、苦しみに満ちた声を産み出すことはなかった。わたしは自分が鋼鉄でできた圧制者のようにやるせなかった。虚偽は彼の郷愁と断絶を切り裂いたのだ。
そうだ。云ってしまおう。痛みに満ちた、真実を。耐え難い事実の力を荒れ狂うに任せよう。そして博士の歎きをわたしの心の盾としたことを伝えよう。彼を、せめて語ることによって、存在した証しを立てよう。けれど、罪はなお眼前にあるのだ。
ためらいは、ほのめかしですらない。かなしみということばすら、許しがたい圧制の証拠でしかない。もはや、なにか云いうることがない地点を語ることなど、いや、避けることが何を生むだろう。
けれど、真実は……シンジツは、ただ石のこころになりきって語ろう。
その日、彼は朝から庭に出ていた。珍しく晴れやかな顔をしていた。ベンチに座っている彼の許に、博士は近づき、尋ねた。彼はこう云った。云ってはいけない、と。博士は彼の父のことを話した。彼の母のことを話した。わたしのことを話した。彼は黙って聞いていた。何時迄経っても口を開こうとしなかった。博士はためらい、無言で去った。午後になって、わたしが庭に行くと、彼はわたしに何も持っていない手を差し出して、花をあげよう、と云った。わたしは不可視の花を受け取った。彼はうつむいた。それからの数十秒のことをわたしは語れない。何も起きなかったからこそ語れない。再び顔を上げたとき、そこに彼はもういなかった。その男は、いや、その男の目はもはやこの世界の中にいた。そして、「ここは?」と尋いたのだ。
博士は「彼は医学的には回復した」と呼ぶと云った。たった一つの救いは、その男が彼を憶えていないことだった。けれどそれが何になるだろう。やがてその男は彼の記憶を奪い始めた。そのたびに切り裂かれる何かを、しかしわたしは弁護してはならないのだろうか。彼はほんとうに不在の場所へ帰ってしまった。わたしは博士が嘆くべきではないと自分に云い聞かせるのを見ながら、博士の心の動きを忖度し、観察することで、思考を拒否した。その男は親切で善良な、扱いやすい患者だった。退院したとき、わたしたちは涙を流しているような気がしていた。「なぜあんなことを云ったんでしょうね」全く別の人間だと信じることができたら、けれどわたしはまだ幸せだった。その男は間違いなく、失われた彼、いまなおわたしたちを絶対的に拒みつつある彼なのだという事実、彼が彼でないという事実、それを表すしぐさのひとつひとつが、拒否の身振りだということが、もはや取り戻すことのできない傷であるという、その男の普通さが、わたしを切り裂き続ける。
あの見えない花はまだ、わたしの手のなか。
けれど、もう、萎れてしまった。