硝子の遍歴 

 −まったく、妙な話さ。ときには、正しいことよりまちがったことをするほうがいい場合もある。
                  フィリップ・K・ディック




 期末を終えて、やけに高揚した頭のままで下宿に帰り着いてみると、郵便受けにこんな手紙が届いていた。なんだか、思わずそのまま出家遁世したくなるような文面だった。
 「気持ちよくなりませんか。いい薬があります」
 文章も内容もひどいが、それよりもまず、なぜ、ぼくの所に送ってきたのかが疑問だった。訳が分からない。
 とは思いつつ、ぼくはやみがたい好奇心の求めるところ、記された住所と口座に手紙と金銭を送ってみた。むろん、どぶに捨てることになるのを覚悟の上だ。
 一週間後、送られてきた薬は真っ白な厚紙の箱に入った錠剤の姿を持っていた。英文の印刷も紙も悪い説明書がこれでもかと云うほど中に折り込まれてあった。いずれ、安賃金のパートの仕業であろうが、何とかならないものだろうか。辞書を引きつつ、苦労して解読してみたところを要約すると、一回二錠服用にして、効き目は凡そ二時間。
 ぼくは誰もいない八畳のアパートで、部屋の隅の机で、しばらく検分するように箱を眺めてみた。ほとんど何の連想も湧かない。これでは本当にただ見ているだけで芸がない。やがて、突然にかつての記憶がよみがえって、この色と結び付いた。これは屍衣の色なのだ。
 思い切って、錠剤を二錠取り出すと、かららんと、硬い音がした。

 秘密を隠蔽していた砂が吹き払われ、世界を構成する無数の蠢く蟻が見えた。しかしまもなくして、蟻たちは走り去ってしまった。にじみ絵のようになった世界は走り去る光りに充満し、紛れもなく鼓動していた。机は不意に柔らかい何かアメーバ状のものに化けてしまう。これでは座れない。四囲からの喜怒哀楽その他あらゆる感情や意志の込められた視線を感じる。ぼくは見られていた。しかし、誰にだろう? 壁という壁は透き通り、かなたの銀河の話し声がたしかに聞こえた。そして不意に、意識の焦点がどこか、離れた場所に合い始めた。

 それはイレーナさまの声だった。わたしは目を覚まし、あたりを見回した。古い様式の城の寝室が目の前にあった。落日の最後の光のような黄色さが充満していた。ここはどうしてこんなに昏いのだろう。わたしは頭を振った。そうだ。起きてイレーナさまのお世話をしなくては。
 寝台の脇にイレーナさまは立っていた。目はいつものように閉じられたままだった。盲目なのだ。もうすぐ、お城のまわりを覆っている虚無の真っ白な流砂がイレーナさまを奪ってしまうだろう。
 「どうしたの。見慣れない人のように」
 イレーナさまの視線はテラスの窓の外に向けられていた。その空には巨大な岩塊がいくつも浮かんでいた。異常なほど青い空は見つめているとその無限の現実感の強さに惚けたもののようになってしまうと思われるのだが、イレーナさまは飽きもせずその光景を凝視していた。
 「イレーナさま。そろそろ虚無の流砂の降る頃です」
 イレーナさまは黙ってうなづいた。
 やがて白い砂時計のように黴びのように固形の雨のように流砂が雲もないのに無限の上から降りだし、視界を覆った。
 「お城がまた、痛みますね」
 無韻のメロディに耳を傾けているかのようなイレーナさまの声が聞こえた。
 立ち上がろうとしたとき、ふと、わたしは砂の名まえを思い出してしまった。
 世界が上方に向けて揮発して行った。

 もう夕方になっていた。西日が容赦ない。そのうえ体中が痛かった。自業自得とはいえ、ひどいめにあったと云ってもいいだろう。けれど、不満はなく、却って彼女のまぶたの中に隠されているはずの目は、きっと空よりも青いに違いない。そんな確信だけが残存していた。汗はかいていなかった。ただひどく空腹だった。体を覆っている見えない膜が、ほんの少しだけ薄くなったような気がしていた。
 クーラーが動いている音がしている。
 心臓に悪い突然さで、電話が鳴った。面倒くさそうに、受話器を取ってみると、
 「ドアを開けなさい」権柄づくの女の声がいきなり命じてくる。従わねばならないような気がして、ぼくは仕方なく鍵を外して、戸を開けた。
 しかし、どこにも外はなかった。
 虚無に浮かぶ廃墟をいく千いく万もの蟻が這い回っていた。

 誰かの叫び声とともにぼくの前には朧な影が映る。
 「どうしたの?」
 さくらだった。哉崎さくらは白いTシャツを着ている。ブラジャーが透けてどきどきしているのに、我ながらこんな際ながら呆れもし、感動もする。人間というのは時節を選ばないものである。何年も土の下にいたフラストレーションを必死で発散させようとしているような、ばかみたいに喧しい蝉の声がした。さくらは言葉を続けた。ぼくは自分の口にタオルが詰め込まれているのに気づいた。暴れたのだろうか。そうすると、存外ぼくは重症の筈である。
 「ものすごく大きな声だったわ。病気なの?」
 何て間の抜けた問いだろう。思い出して、ぼくは答えた。
 「いや。じゃあ行こうか」
 そう云えば動物園に行く約束をしていたのだった。
 八月の真昼というのは、何か白いものがにこごりのように空気に溶け出して混ざってしまっているかのごとく、不透明で重ったるい。歪められた大気はプリズムとなって光景を乱反射させ、その光りのあちこちにぶつかっては迷走する音が聞こえそうだった。
 「倶利加羅動物園」という表札は白茶けて水分を失ったトカゲの死体が磔刑に処されてあるかのように壁にくっついていた。なんて連想だろうと思いながら、ぼくは暑さを享受した。受付の前にあるわずかな日陰に憩っている。さくらは二人分の入場券を買ってくれている。長い髪がまるで暑さを巻き込んでいるかのように、湿ってだらしなく姿形にまとわりつき、さくらの活発そうに見えてその実粘着質の性格を表しているのだ、とぼくは勝手に考えた。
 雲が結晶になって落ちて来そうな日だった。水でさえからからに乾いてしまいそうだった。さくらが後ろを振り返ってぼくに手を振った。手をコールタールのような大気の重さに抗して振り返しながら、ぼくは左手をジーンズのポケットに入れた。錠剤が手に触れた。それは云わばこれ以上、分割できず、それゆえに一点の不連続も掛け目もないというような、素粒子だけが持つことのできる平坦さと堅さを持っていた。
 さくらが小走りで近づいてくるのが見えている。
 「はい。ヤスくんの分」
 もしさくらの横顔をナイフで切ったら。多分縫いぐるみの綿が溢れ出すに違いない。ぼくは券を受け取るとその顔に向けて云った。思考が連想から連想に飛んでいた。
 「じゃ、入ろうか」
 やがてさくらはソフトクリームを買い求めに行った。赤いベンチでぼくは猿たちを傍観している。猿たちは凝然とまるで一味になっているかのようにぼくを見つめている。身じろぎもしない。ぼくは視線を感じながら人どおりの中に誰か探すべきひとを探した。
 「……蒸すなあ」
 そう云えば、さくらとは別れたんじゃなかったっけ。異様に頭の大きい、二足歩行をしている象の着ぐるみが近づいて来た。暑いのにご苦労なことだ。バイト代は幾らくらいだろう。象は帽子をかぶっている子供に風船をあげると、ものも云わず水のなみなみと入ったコップを差し出してきた。受け取ると、ぼくはごく自然にポケットに手を突っ込み、青白い錠剤を取り出して飲んだ。期待して待つ。だが、何も起こらない。世界は毫も変貌してくれなかった。
 「あれ、何してるの?」
 戻って来たさくらが目ざとく尋いてきた。ぼくは答えた。
 「さくらを待ってたんだよ」
 猿たちが急にジャンプを始め、騒ぎだした。

 「ぼくが思うにきみはその女性を探すべきだよ。なに欲求不満、欲求不満と云ったって馬鹿にしたもんじゃあない。きみはきみが本当に望んでいることについてなにがし手掛かりを見つけた訳だ。おめでとう。以て祝すべし。一杯干そう」
 山崎、と名乗ったくたびれた背広を身にまとった五十歳代のすでに酩酊の極みに至った男はそう早口で云うと一杯補給してぼくのグラスに軽くかち合わせて勝手に乾杯した。半地下にある「ソフィア」という名の飲み屋である。客層がまとまりがないのが特徴で、奥にカラオケやバーまであるくせに、座敷もあったりと意味不明な場所だ。それらすべてが信じがたいほど成り金の悪趣味で派手で大ざっぱで適当に組み合わせてある。つねに薄暗くしてあって有線がこれまた無節操に流れているのだが、当然奥のカラオケも一緒になって聞こえて来てごたまぜになっている。だからこの店に対する反応としてはすぐさま怒り出すか、しばらく店内を見回してから不思議な得も云われない笑みを浮かべてまるで百年来の常連ででもあるかのように腰を落ち着けるかのどちらかしかなかった。ぼくは後者だった訳だが、そう考えてみると案外この男も今日初めて来た口かも知れない。お座なりな興味を覚えながら、それでもどうせ興ざめなありがちな不幸を後生大事に抱き締めてているような男なのだろうと思うと追求もしたくなく、ぼくはまずそうにビールを口にしながら話を専一に謹聴していた。
 「だが、と反論しないのかね、学生さん」
 「どういう事です?」
 「その薬の話、それから、何と云ったかな、砂の話だよ」
 そうだ。ぼくはそんなことまで話したのだった。動機の大半は世人の狂人を見るような憚りの有る目で見られたいという軽薄幼稚かつ不謹慎極まるものだったのだが、残念ながらこの男はそんなふうに反応しなかった。逆にだからぼくは裏切られたような詐欺に掛けられたような気がしている。
 「そう。確かにあれは現実でしたよ。まだ一錠くらいなら部屋に残ってるでしょう。けれどそんなことはもうどうでもいいんです。あの薬が本当だろうがどうだろうが、砂がいまも流れていようがいまいが、それがどうしたっていうんです?」
 男はその問いを待っていましたとばかりに嬉しそうに受け止めた。おおげさにまるで言葉が実在にたとえばマンガの吹き出しの様にかれの方にやってくるのを捕まえようとでもするかのように両手を広げて埒もなく二三回動かした。
 「それが問題だと思うがね。いいかい、学生さん。有為の若人はそうやってすぐ問題を投げ出しちゃあいかん。確かに何が真実かはこの際どうだっていいが、どうすべきかはきみだって知りたいだろう。なかったことにするっていうのも素敵な案だがその前に、きみがそうすることによって何を無視することなるのかを確認しておこうとは思わないのかね」
 「思いませんね。何回でも繰り返しますが、それが本当なり嘘だったら現実がどこか変わるんですか」
 「現実。おお、現実よ、我らの世代のリアリティよ、かね。きみは言葉をもう少し勉強したまえ。現実とは何か。わたしがここでこうしてきみと飲んでいるというのが現実ではあるまい。写真を撮ってファイルにいれられるのが現実かね。いいや違うね。断固としてわたしの意見は違うよ。現実と云うのは、惚れた女の子が世界で一番きれいだと云うことに尽きるよ。いささか俗だかな。断断固として断言するがね、ここが居酒屋だなんて云うのは、きみ、これ即ち全く現実などと云うものじゃあない。わたしに云わせればここはまあ、やけに積極的な囚人ばっかりの流刑地みたいなものだ。わたしときみは同期の桜というわけだな。それでだね」
 男は急に声を潜め顔を近づけて来た。
 「きみのまごうかたなき現実である所のイレーナ嬢とその、流砂だがね−
 「どれにする?」
 喫茶店のメニューを見ながらぼくは吐き気を珈琲に覚えてしまう。もともと胃が弱いので苦手なのだが、それ以上にその不純さと混沌と乱雑さが嫌悪された。何か話しているさくらの口をみながらぼくは珈琲は実は炭からできているのではないかと邪推している。
 「ねえ」
 別人のようにまじめな口調でさくらが云った。
 顔を上げるとぼくは顔のない輪郭を見た。顔には輪郭に沿って空があった。顔は一個の深い深い穴だった。トンネルの向こうには莫大な空間が広がっていた。そこにはぽかんとお城が浮かんでいた。一方では喫茶店の雑談はまだ一向やんではいない。だが誰もこのひそかな次元の歪みに気づいてはいなかった。ぼくは高所恐怖症の発作に耐えながらこの恐るべき空洞をのぞき込む。穴からは風がかすかに吹き出していて、内側にはなにもない。穴の内側さえなかった。ぼくは両腕を突っ込み、ぐいと引っ張った。
 とたん、世界がでんぐりがえった。どこまでも青空に満ちた無限をぼくは何処からくるのかも分からない引力に引かれて落下して行った。
 気が付くと、虚無の真っ白な粒子が降りしきっていた。ぼくはお城のいちばん外郭に倒れていた。何処の様式でもあり、何処の様式でもないような西洋風の尖塔のある城郭が目の前にそびえ、しかしそれはまるで数千年を経たかのように風化していた。虚無の白い流砂は砂時計のように細い筋を作って雲もなく上から降って来ては城郭に触れて消えていた。だがぼくはしばらく寝そべっていて気づいた。粒子は城壁の細かな粒子も道連れにして消えているのだった。ちょうど素粒子が反素粒子と対消滅するように。ほんの少しづつ毀たれていく毅然たる繊細な建物が見えた。イレーナと話さなくてはならない。外壁のまわりをしばらく歩くと城門が見えた。門は閉ざされていたが、門の前には鍵が落ちていた。ぼくは鍵を拾って門を開けた。蔦のからまっていた門は思いの外すんなりひらいた。小径をしばらく歩くと、石段があった。
 「あなたは?」
 階段の上の、カーブで影になっている処から声がした。
 「杉野康幸」
 ぼくは段を登り始めた。
 「何しに来たんです?」
 「イレーナに逢いに」
 「それはいけませんわ」
 「なぜ?」
 急いで上に登って行く足音がした。
 「イレーナさまは盲目ですわ」
 「だから?」
 「虚無が降っていますわ」
 声はもうすぐ近くだった。
 「それでも話さなくちゃならないよ」
 返辞はなかった。
 登って行くと、いちばん上の段には召使の服が捨ててあった。ぼくはその服を壁にかけると廊下を奥へと歩いた。廊下には赤い縫い取りのある絨毯が敷いてあった。右手にはガラスも何もはまっていない窓がそらを映していた。左手のドアにはすべて木の粗末なドアがあってどれも鍵がかけられてあるようだった。
 「行きましょう」
 昏い部屋でイレーナはぼくを瞑った目で見るなり云った。その声には削り取られた存在に特有のかすれがあった。ぼくは城が身じろぎしたがっているのを感じた。
 「何処へ?」
 イレーナは堅い表情のまま窓に向き直った。
 「外へ」
 「ずっと、待っていたの?」
 窓の外で大きな岩が音もなく砕けて崩れ去りながら落ちて行った。
 「まだ、間に合うかもしれないわ」
 「何に……?」
 イレーナはうつむき、再び顔を上げた。
 「手を」
 イレーナはぼくに歩み寄った。手が触れた。触れたそばからぼくとともにイレーナは指先から消え始めた。最後に両目の青さがぼくを見上げた。

 幻覚から冷めるときっちり二時間後だった。曖昧な数日後、ぼくが新宿駅を歩いていると不意に寒気がした。見上げるとビルの谷間から虚無の真っ白な流砂が舞い降りてきていた。それは見渡す限りを羽毛のように染めてひどく静かだった。屹立するビルのあいまにそれは慈悲のように降り込んでいた。
 ぼくはポケットを探ろうとして、やめた。
 「どうしたの?」
 さくらが聞いた。右手をぼくのわきに絡ませてくる。
 壮大で静かな破壊はゆっくりと迷宮の天を覆っている。それはこれから数万年をかけてこの都市を覆し廃墟と化してしまおうとしているのだった。ぼくはようやく安心した。さくらはまるで典型的な女の子をひどく思慮深く完璧に演じてでもいるかのように無邪気にぼくを見上げていたが、その腕は不思議なほど冷たかった。

 −それは何かを、意味しているとお考えかね?」
 「心当たりはありますよ。どうせあれは僕の理想像かなんかでしょうよ。でもここで精神分析してみせてなんになるんです。あんまり無意味じゃありませんか。ぼくとしてはですね、あれは不思議な出来事だった、マル、ということで落ちをつけて置きたいんです。その方が建設的でしょう?」
 「だが、学生さん、それは傲慢な態度じゃないかね。きみは意味を分かっているからこそ解明しないのだといいたげだがね、本当にそんな意味に回収できる出来事だったと云い切れるのかね」 その台詞を男はやや得意げに云ったのでぼくは当然受けるべき衝撃を二割ほど減じて聞いてしまった。
 「そうかも知れませんが、だからといって解明して何か建設的な教訓でも得られるとは限られないでしょう。どうせつまらない現実を再確認させられるだけですよ」
 「いいや、結局、きみは言葉にしていないだけで解釈してしまっているのだぜ、それを大事に抱き締めているよりは、もうちょっときちんと考えてみた方がよくないか。失敗して無意味な結果になったとしても、わたしは幸せに物語を無理に信じ込もうとしているよりはましだと思うがねえ」
 勝手なことを偉そうに。ぼくは無言で席を立ちかけた。すると店内のカラオケの歌声が不意に耳に入って来た。

 道化も道化
 うんざりするような……

 「山崎さん」
 ぼくは取り敢えず立ち上がって男に顔を寄せた。
 「あなたは、建設的ですね」
 答えを聞かずにぼくは席を立った。

 それが七日まえのことだ。
 その間、ぼくはずっと誰にも会わずに暮らしていた。そしてあの幻の言葉の意味を考えるともなく考えていた。いや、正確に云うと、あの幻のことを考える振りをしていた。なぜなら、根本的にぼくにはなにか答えを出そうという意欲が欠けていたからだ。
 いまでも、虚無の粒子がまだ遥か上から降ってくるのを見ることもできる。けれど、もしかするとそれは思い込みなのかも知れないとも考え始めている。
 ときおり、衝動的にソフィアには行ってみたけれど、結局あの男には会わなかった。
 そういえば、イレーナ、というのは「平和」という意味なのだそうだ。

 そろそろ幾らなんでもばかみたいに自分で自分を自宅軟禁にしてばかりもいられず、夏休みのレポートにとりかからなくてはならなくなったので、仕方なく図書館に行った帰りに、山の手線の電車を降りると、数メートル向こうの階段を上っている雑踏の中に、ぼくは何処かで見た後ろ姿を発見した。いささか草臥れた猫背で、季節のわりに厚ぼったい上着の壮年の男だ。けたたましい発車の音の所為で、ぼくは思い出した。いつかの山崎とかいう人物である。声をかけようという気も起こらず、却ってぼくはやりばのない憤懣を思い出した。なんだか、ぼくの記憶にある威勢のよさとは裏腹に、ひどく普通のサラリーマンにしか見えなかった。本当は、そのことのほうが、腹立たしかったのかも、知れない。その姿が消えるまで、ぼくは立ち尽くして見送り、それから逆方向の改札へと勢いよく歩きだした。

 狭いクーラーの壊れた下宿で、ぼくとさくらはウチワを使いながら揉めている。
 「すぐに捨てなさいよ」
 ぼくだって、薬なんてものに依存するつもりは毫もない。問題なのは、なぜ、手に入れたかということ、そしてなぜ、わざわざ試してみたかということを、さくらにぼくが説明できないということだった。好奇心という説明は、さくらばかりでなく、ぼく自身ですら説得できないものになってしまっていた。
 「……うん」
 曖昧にうなずくぼくを見て、さくらは怒った猫のように云った。
 「なにをしてるのよ」
 どうしても、説明したかった。さくらが心配しているほど、下らない逃避のつもりだったわけじゃないと、納得させられたら、どんなにかよかっただろう。
 「ともかく、全部、話すよ」
 話しながら、すべて青きものの耀ける粒子はイレーナなのだとぼくは思ったけれど、さくらに伝える言葉がなかった。たしかに、すべてのなかにイレーナは溶けているのだった。
 そしてぼくは、さくらの持ってきたミネラル・ウォーターを飲んだ。
 ペットボトルの表面には、幾筋も、澄んだ滴がながれていた。

 そしてぼくらは不毛な会話と不毛な約束の後、また、逢う約束を交わした。
 その日の帰りに、さくらは破り捨てられたあの手紙を見たのだそうだ。
 ぼくはといえば、自己嫌悪に陥る暇もなく、その午後も含めて、それから一週間ぶっつづけで課題のレポートに没頭した。まったく、ひどい夏だった。

 −epilogue

 あの大火の後の、だだっぴろい焼け野原を歩いていると、前方にバラックが見えた。どうやら市場らしい。近づいて行くにつれ、無数の肌の色と言葉とにぼくは出くわした。復興のために、いくつかの外国企業が入って来ているのは知っていたが、実際にしばらくぶりにやってくるまでは、これほどとは思わなかった。
 通り過ぎようとして、ふと、汚い絵が地面に置いてあるのに目が留まった。許しを得て、埃を払ってみる。額に入っていたのは、城の絵だったが、どこか見覚えがあった。理由を考えながらぼくは背景の真っ青なその絵を見ていた。虚空に島のようなものが、浮いているのである。
 しかし、どうしても分からず、ぼくはその店を去った。

 汽車の中で、さくらからの手紙をひらいていると、ふと、冷たさをほおに感じた。
 気が付くと、なみだが一条だけ、ながれていた。
 そうだ。あの絵は、幻の城に違いなかった。
 けれど、なにがぼくを泣かせたというのだろう。
 すべては過ぎ去った日のことなのに。

 ねえ、さくら。なにもかもが壊れて行く。
 あの日見た幻のように、天から虚無がゆっくりと降ってくるように。
 安らかさも幻もイレーナも、もはやぼくの中には、ない。
 それでもぼくは、きみに挨拶を送ろう。
 そして、ふたたび逢うことがあったら、微笑み交わそう。
 ただ思いでのためだけでなく。
                           fin.