放埒の記


 ひと、思うことあって、ときに慟哭す。また、他日、瓦解に瀕することあり、心に快活をまとう。いづれもその性の然らしめるところなり。

 初夏の葉には目を射るような白日が宿っている。わたしはその輝きに盲いるたびに、自分の放埒をおもわざるをえない。生命という言葉にむかしから何の喜ばしい響きも感じることが出来ないのは、この緑の無惨さをいつも思うからだ。大人が子供に裏打ちされているように、生は死に裏打ちされているに違いない。それはただの死ではない。腐敗と白日の二次元にとりまかれた、気味の悪い死なのだ。

 書物のなかには不安のたねが眠っている。どうしてこれほどの味気なさがただの文字の列から立ち上るのだろうか。書物は死んだ言葉の集積だからだろうか。空を見る。そこに満ちているのはいままさに形をなそうとする風の文字だ。大気はいつもそこからあぶくのように文字を浮き立たせ、読みとられるのを待っている。
 おろかしげな言葉の羅列にも、ひとつだけ取り柄がある。白紙がはらむ雪盲にも似ためまいを隠してくれるという取り柄だ。まったく、時間の流れには、無惨なものが含まれている。

 いうべき言葉がない。なにかを伝えたい、ふれあっていたいと思うのに、伝えたいことはなく、いいうる言葉もない。それが、最大の惨めさだとおもう。
 その苦痛に比べれば、いうべき事をいうためのためらいなど、苦痛ではない。そこにはなにかしら官能があるし、希望も、決死の絶望さえもある。

 不安の大半は、自分の見えない場所にあったものが視界に入ってくるということに関わっている。見えないということには強烈な「意味」が立ち上がる。自分が何者なのだろうかという問いよりも感情的に意味を持つのは、自分には何が見えていないのだろうかという問いなのではないだろうか。白紙になる。精神が一個の夢になる。まっくろな海に浮かぶ船のように、精神はくらい無意識にうかぶ。ぷかぷかと動揺のたえることもなく。考えているのは、無駄なことばかりだ。

 放埒とは、おのれに権利なきものを貪るということを意味する。権利とは、返しうるということだ。もとより返しようのないものを貪って、ひとは愛する。そこに意味などないし、掟もない。しかしそれだけのことに啓示を見いだしていったいどうしようというのか。放埒は、ただ、無惨な愛の側面でしかない。
 無為と放埒とのあいだで、惨めな日々は、それなりに他者を踏みつけにして、発酵するかのように、ゆるやかに下降していく。

 憂鬱を補償するために書く。そう考えていた。それが結果として何かになる。ともあれ、そうでもなければ耐えようがない。そう考えていたのは、生活からの理由ではない。むしろ、書くことそのものがつらいから、憂鬱は理由だったのだ。生活が理由ではないし、書いているときのわたしにとって、不幸は夾雑物に過ぎない。だが、書くことは憂鬱をいやしなどしない、ということに唐突に気がつく。憂鬱はただ書かれているとき忘れられているのだが、醒めたとき、その憂鬱は、他者となり、より繊細になるにつれて、むしろ無惨な暴威をましているのだ。
 だから、憂鬱はただ書くことへの予兆的なイマージュであるにすぎない。

 やりたい放題やったとしてもひとつだけ残るものがある。
 細部だ。書ききれないほどの細部がなぜか大写しで記憶を占め、執拗な凝視で苦しめる。不安はその細部から到来するかのようであり、ほとんど、忌まわしい傷や出来物に似ている。
 何を目指しているのだろうか。

 涙のイマージュにはどこか最高の幸せの感覚が備わっている。どんなかなしみの涙にも、悲痛な慟哭にも、やはり、幸福のエッセンスがふくまれていることはおそらく否定できない。だからこそ、ひとは涙を夢にさえ見る。
 瞬間のなかで破裂する、世界の粒のイメージ。

 精霊のこえを聞くことが出来る瞬間のように、ふと、言葉がやってくるときがある。このとき言葉とは単語のことというよりは、一個の表現であり、それを口にする口調であり、そしてなにより、ニュアンスそのものだ。そしてそれが一個の物語の中でのできごとであった場合には、それは、ひとつの操作、命令、宣言などの、物語をうごかす行為そのものという意味をさえ帯びている。
 だがこれらの言葉はいまだ種子にすぎないから、だまされてそのまま記述し、使用するとてひどい目にあうことがある。問題なのは、そこにかけられた圧縮をとくことなのだ。到来する言葉には、ありとあらゆる未来が種子として孕まれているから、それ自身は、なまの素材としては、表現になりえない。
 一瞥の愛に似ている。

 螺旋には、原型がある、そのことは多くの人がいう。だが、本当はそうではない。原型という概念そのものが、螺旋に由来しているのだ。螺旋という形から、不可避的に原型というねじれた概念が生み出される。螺旋のように、原型とは、ずれながら、その像へとのぼりつめる。原型と仮象とのあいだにはまぎれもなく螺旋があり、それゆえに、すべての螺旋のなかには、虚構的な、像のイマージュがふくまれる。イマージュもまたたしかに像ではあるが、像のイマージュとは、像というありかたをなりたたせる或る動きのイマージュなのだ。

 瞬転して瞑目。わずかに一瞥のうちに、絶望を捉える。生はいまだ存在している。そしてそれだからこそ、絶望はただ一瞥の効果であり、そんなものはありもしない幻影に過ぎなかったのだと、いきのびるむごたらしさの為に、思う。

 女たちが語り継ぐ物語、囲炉裏の周りのまどいのイメージ。ひとり孤独の部屋で、生涯を、後生を願いながら語りなおしていく尼のイメージ。壮麗な伽藍で、高らかに語られるべき縁起を真夜中に筆写していく学僧のイメージ。無数の物語のイメージのなかで、なにひとつ捉えることが出来ないのは、文字の走りだ。
 物語は語りながら、あることを語らない。文字の走りはその語られなかったことを図形として、イマージュとして、取り込む。そこで語られないことは、ただ、ある種の息づかいや細部や色彩や時間の密度やにすぎないが、十分に意味をなすことはない。聞こえない場所で、聞こえないことについて、想像ではなく語ることは、ただの不可能であるというよりも、ひとつの語義矛盾だろう。
 すべては運ばれてしまうものをどのように組織立てるかにかかっている。

 ばかばかしいと笑ってしまう。笑いは官能的なものだ。涙とは違う。笑いが官能的なものだからこそ、すべてを奪い去って白熱しうるのだ。となれば、官能のなかには、かならず、馬鹿笑いによく似た白熱がふくまれているはずだ。
 暇なとき、そんなことばかり考えて笑っている。
 だが、ひとりで笑うことは、自慰よりもむなしく、消耗的だ。

 弱音をはくことを恥じてすでに十数年になんなんとする。いまさら、この虚勢をぬぐことに意味もあるまい。痴愚にして、思うことは、そうした些細な誇りだ。
 願わくば、我、速きこと光りのごとき南風とならんことを!
 背後に残した痕跡においつかれぬ速度で走り抜けることこそ肝要だ。そうすればどんな悔いもかなしみも背後にとりのこされて、ばかばかしさのあまり笑うだろう。

 書くほどにたかまる憂鬱はしかし表現からは滑り落ちてくる。かわりに表面に現れてくるのは、書くことの、食欲にも似た快楽の痕跡だろう。それでいい。だが忘れてはならないことは、どんな表現の快楽もまた、一個の真空のなかにある速度の現象なのであって、けっして、憂鬱の表現でもなく、また、その克服でもないということだ。いつまでも憂鬱なしにはかけないわたしがいるのだが、いっぽうでは、けっして憂鬱など書くことは出来ないのだ。

 なにも聞こえない。
 この現象には、どこか、原型的なものがあり、だから、螺旋をえがき、わたしの精神を、浸食する外部の、時間性であるかのようだ。
 死は本質ではないのだ。死について考えるのはむなしい希望を与えることだ。死ぬときまで生きることが出来るかどうかを心配すべきなのだ。下降には際限がなく、微分され、引き延ばされた、経験の、無意味で薄い時間にも際限がない。
 そのことすら、意味をもってわたしの耳には聞こえない。

 そして、また、月をみて、わたしは大笑いしている。
 いつまでも果てしないかのように。
 放埒にして、わたしはだらしなく笑いつづけている。
 いかなる逆上もまじえず、いかなる涙も、いかなる想像も交えず、
 ただ、月のまどかさが可笑しくていつまでもばか笑いしつづけている。