閉じられた部屋の暗がりで彼女は

 ふと漏れた吐息の色合いは心臓の硝子、明滅する不安を咀嚼しようと何度も深呼吸を試みるがけっしてそれに成功しはしない。考えることはひたすらに 静謐で他人行儀な植民地様式で、分裂する金魚のような自我はきらきらと華やかでたちまちに息絶え、残るのは縁日の息苦しい記憶だけだ。暗がりの濃度の違い だけを識別しながら、部屋の中で彼女は目を見開いて天井があるはずの高さを眺めている。

 街では花が咲き始めた。花という字は化生の草と書き、だから変化してやまない。人々は貨幣として花を交換し、ばたばと倒れていく。

 暗闇の親しさは喚起する無数の天使のイメージ、幼い頃の母親の声は物語るいくつもの謎と天使たちのうつくしさ、けれど物語の世界ではおぞましい事柄だけ がいとおしい。夜がこうして体の外に漏れてしまったのだからもはや恐れはないに違いない。

 通りの反対側にはきっといまも濁流が流れている。だがそこにはもはやマグロはいないだろうし、マグロが本当はいないのだということも知られない。人々は 車のドアを開けることを恐怖から厭い、郵便には手袋を通してだけ接するのだが、それでも日に七度は弔いをかかす事はできない。工場では話すようになった宣 伝ビラがやっきになって広告マンに反論する光景があちこちで見られ、工員たちは牛丼を素直に食べられるように説得するのに大わらわだ。

 信仰はわたしたちのいのちなのですと神父様のこえがみずみずしい闇に溶けてかつて読んだ書物のなかのかび臭い数行を想起する。永遠とはそんな壮麗でもの すごいものなんかじゃなくて、せせこましい物置部屋、そう想像して御覧なさい。

 銃声、絞首、幻灯、東方の野蛮な女王たちが歌うのは海への賛歌、たとうべき唯一なる神のめぐみの及ばない土地で人々はなんに祈るのか。一瞬にして心臓の イメージは甘く切なくいざないの時計へとかわり、白日のなかで原子雲がひろがるいろあせた記録映画の映像がそれを圧倒する。

 街では人々は彼女の不在を問いただし始めるが、そのまえに大統領が王様とつれだって街にやってくるという噂がきこえてくる。この国の王様と大統領はなか がわるいというひともいれば恋仲だという人もいて、実際には二人がたがいの存在を知らないのだが、別の肩書きでは相手のことを知っていてバカにしているの だという本当のことを知っているものは誰もいない。

 彼女のわき腹には夜のあいまいな蜘蛛がいて、見えないままに問いかけるのだがその言葉は音ではなく文字で、だれに忠誠を誓うのかと沈黙まじりに質す。

 暗い部屋には明かりなどなく、そして時折、夢のように美しい金色の綿のような雨が降りしきるのだ。それこそは真に危険なものなのだと何処かで直感が囁 く。

 出産した鯨の痛みにたえる声が壁の向こうで。

 ため息を祈りととりかえていいのは三度だけ、それをすぎるとすべての魔法がこわれて目の中の硝子は散り散りに砕け、耳のおくの貝殻は落胆したねずみより も手をつけられなくなる。

 街では革命を起こしたネズミ達が総出で権力闘争に明け暮れている。ラジオから聞こえるのはいくつもの宣言、通達、非難、栄光、絞首、銃声、水の気配。

 生まれるまでに未来の全ての記憶を夢に見る胎児とはまるで同じところがない彼女はただひたすら暗がりの中でいろのついた気配がきえうせる朝を待ち望んで いる。

 街では閉じられた部屋のなかで見出された花の弔いが始まる。