テノリ物語/デタラメじてん

 NASA

 何度目かだった。一也はまたいやがる女とコンドームをつけずにセックスした経験を手振りを交えて話していた。木添さんが絶妙の相づちを入れて、田舎芝居みたいに出来事が再現されていった。浜からあがったところにある国道の縁石に真咲は座って、どうしていいか分からないせいでこわばった曖昧な笑いを浮かべて、視線を宙に浮かせていた。すでに浜は真っ暗になっていて、やむことがない波の音がいやでも注意を要求していた。花火のほとばしるような音がして、ひかりが浜の遠くでちかちかひらめいた。ヘッドライトが闇の中を照らし出したかと思うと、赤い室内灯だけをつけたくらい運転席と鉄のかたまりの存在感をのこしてトラックが通り過ぎた。腕時計を見ると、社員が乗ったバンが来るまでもう五分もなかった。真咲は小砂利を手のひらから払うと、意味もなくたちあがった。志井はあいかわらず、懐中電灯のあかりで漫画をひろげてよんでいた。

 ただあたりが暗いというだけでひそひそ声になって、隣でうずくまって落ち着きなく車道の様子を伺っていた新人らしいやつに、真咲は禁煙、と短くいった。めまぐるしくヘッドライトにつれてうごくかれの頭のあたりに、赤い点がちらつくのが見えていた。柔らかい優しい感触がして、足をあげて確かめると、足の裏に、白いカエルが貼りついていた。

 肩をたたかれる感触で気がつくと、待っていた黒い人影全員が立ち上がっていた。聞き慣れたうなり声とともに、ライトバンが目の前に止まった。黒い空っぽの腹があいて、社員の緑色のお仕着せのジャンパーが降りた。

 「どうも! ご苦労様です」

 まだ若い社員は、進み出たジーンズの坂上に挨拶をすると、ボールペンであわただしく人数をかぞえはじめた。こうして車のライトに照らされて間近で見ると小太りで、せかせかしていて、ただ妙にうわのそらな口調がなぜか気に障った。半身だけ照らされた人体はまるで半分に無惨にも切り落とされたようで、湿った夜の時間にはふさわしく見えていた。(00/08/22)

 マリア

 かれはその犬ふうのものを飼ってるふうにしていたが、それはとても楽しいふうだった。しかし或る暑いような夏っぽい日に、彼のようなものはその犬のようなものを憎み始めたふうな気がした。雨のようなものに打たれて、その犬のようなものは耳のようなものをぴんとたてて、尻尾のようなものを振った。だが彼のようなものの心のようなものはどうしようもなかった。(00/08/13)

 ダリア 

 Nin-gen ni Hana ga saka-nai no ha kimyou na koto de ha nai darou ka.Hada no ue ni Hana ga saku,Sekai ha sonnna huude attemo yokatta no de ha nai ka.watasi ha itumo sou omotte ita.
 Ai siteru to hito ha tayasuku iu. keredo, Ai ga kasetu ni suginai nara......watasi ha kaze ni koi site ita.(00/08/12)

 ぼくは、とか、おれは、とか、わたしにとって、とか、ほんとうは、とか、そんなことばかりいうのね。最悪の存在でも、はじめより存在しないよりはいい。そう考える建前にしたんだ。感覚を裏切ってまで、ね。あまりの誇りの高さより、理解されることを望むことなく没落を意図するあの一群の悲劇的な人々……わたし、ほんとうは、ホントウノコトしか知らなかったんだわ。きみは善良だよ、誠実さが卑劣だと気がつくくらいにまじめだからな。あなたのそれは悪意ではないわ、それは、ただの、そう、ただのいきすぎた無垢。(00/08/12)

 日光写真

 暑い日だったのでタカシくんが切れるまでユウタとミヤは滑り台の下でチューをしてすごした。タカシくんがおやつ時になって切れたので、ユウタはタカシくんに猫を一匹加えることにした。野良猫をバスケットに放り込まれたタカシくんはお、おれはまじめにやってるんだあ、と猫を放り投げた。その瞬間を狙ってミヤはホースから引っ張った水をネコとタカシくんの両方にかけた。華やかな虹が立って、ユウタとミヤはこれを見てよしとした。第一日目である。(00/08/04)

 廃墟庭園

 安西さんがいつになっても文鳥を返してくれないんです、と玲子がいうのでオレは張り切ってバベルの塔の結構うえのほうにある安西さんのプールまで文句をいいに行った。プールに入る前に体操をしているともう目に入ったのは、安西さんが玲子の文鳥といつまでもムキになってウノをしている光景だった。そのときオレが考えたのは当然、玲子を呼べば、面子が揃う、ということだったのだけれど、ともかく文句をいおうと思って、強風にあおられるなか安西さんに近づくと、困ったことに、安西さんだと思っていたのは、ただの案山子でしかなかった。(00/08/04)

明日、ジオパークが閉鎖になるという日の夕方、おれは彼女を誘って誰一人いない園内に忍び込み、観覧車に乗り込んだ。ゆっくりとあがっていく箱。空は赤く、パーク内の向こうにはクレーンが黒い長い影を落とし、彼女が賛嘆の声を上げ、おれは水筒とサンドイッチをバスケットからとりだす。空にはなにもなく、荒野に似ていた。(00/08/12)

 木曜日

 金曜日に電気が止まって、月曜日に大家にしかられた。火曜日にバイトに行って、水曜日に豪遊し、木曜日にぐったり眠り、以下同じ。証明終わり。なお、電気はここでは原子力発電の関数とし、豪遊は所詮貧乏人の気晴らし。こともなく、異性もなし。ときどき、スクリーンのなかの地震と戦争を変数とせよ。にゃあ。(00/08/04)

 儲かる 

 上記の項目を参照。ただし、反面教師。アムウェイと株はサッパリ(00/08/04)

 はがきを書く、ということを中心にして、オノミチくんは自分の生活を組み立てていた。懸賞生活をしていたわけではなく、大切な人をすべて海外にもっていたからである。オノミチくんの天敵はゴキブリであったが、ゴキブリの天敵はオノミチくんではなかった。簡単な計算から分かるように、オノミチくんは怜悧とはいいがたい。オノミチくんの愛してやまない瞬間というのは切手を貼る、あの緊張に満ちた一瞬のことだった。オノミチくんがある朝散歩に出かけると、道には無数のバッタが死んでいた。彗星がいつのまにか地球に迫っていたのである。首をゆっくりと振って、オノミチくんは混乱してるらしい郵便局から帰ると、いつものようにはがきを書いた。あてさきは神様だった。神さま、賭けはあなたの勝ちのようですね。こんなときでも、まだ、席を譲ってくれるひとがいます。人類はそんなに駄目でもないようです。(00/08/04)

 純粋猫というものがいた、ということをわたしが知ったのは飼いネコのメルロとポンティの兄弟があるとき持ってきた古新聞を見たのがきっかけだった。かれらはネコにしてはめずらしく何かしら拾ってはくわえてもって帰ってくる。そういうところが、犬だったころの祖先の血が現れているところなのかもしれない。その古新聞には鉛筆で殴り書きのようにしてアドレスが載っていた。好奇心をおこしたわたしが彼らに食事をあたえてからつないで見ると、そこでは幾度も認証を求められ、ようやくたどり着いたのが、最後の純粋猫の持ち主のメッセージだったのだ。猫というものがはじめから別の種としてあったことを知らなかったわたしは、それをよくできたフィクションだと考えていたのだが、やがて、奇妙な事件がおきた。

 それは、次第にひろまっていくネコたちの疫病のニュースから始まった。連日、ニュースはネコたちがけっして目覚めない、しかし生命はどこにも異常のないいわゆる「猫の眠り」に陥ったというしらせをながした。植物状態にちかい深い眠りのなかで、ネコたちはまるで純粋猫たちの鳴き声のような寝言をつぶやくのだという噂がながれていた。

 わたしはメルロとポンティの心配をしながら、そうしたニュースを不安とともにひどく魅惑されてながめていた。すでに去っていた妻からはもう葉書さえ絶えており、引き取られた子供たちに会いに行ってもきまづい、白い午後がひきのばされたように訪れるだけのわたしには、ただ、かれらだけが愛の対象だったのだ。

 なんとなく、やがて純粋猫のことが気になってわたしは、あのアドレスにもう一度アクセスしてみた。すると、ページは消されていて、ひとことだけメッセージがしるされていた。それは、ドイツ語で、「いかなるねこも存在しない」、とかかれていた。わたしはその言葉につきはなされたのだが、不思議な希望をこころに抱いた。いまでもそのことだけは説明できない。しかし、わたしは猛然と純粋猫について調べ始めた。そのうちにも、「猫の眠り」はひろがっていき、さまざまな仮説がたてられては反駁されていた。

 やがて、わたしはひとつの確信に達した。あのメッセージを残した男が、ひとつだけ忘れていたことがある。それは晩年のウィトニャンシュタインは何をしていたのかということなのだ。暗殺される直前のかれの生活はなぞに包まれており、誰もがそれを知ることはない。何度も足を棒にして歩き回ったわたしは、ついにアメリカの片田舎の図書館で、その文書をみつけたのだった。それは、古びた便箋に走り書きされたメモで、晩年のウィトニャンシュタインから、ロシアに住む、唯物論派でありながら彼の忠実な友人でありつづけた詩人のバフニャンへ送られる予定だったものらしかった。かれは、こんなことを書いている。

 あなたに同意して、わたしは対話が何よりも重要なものだと思います、そして、わたしは、自分の発言がおこしたこの騒動に、ひとつの終止符を、あるいは希望を与えたいと願うのです。かつてわたしは、純粋猫の存在を示唆しました。チェシャ猫がなおも猫でありつづけるからには、そのような存在が必要だと考えたからです。しかし、いまわたしは人々の裏切りや転変を見ながら、世界とはもっと豊穣なものだと思い始めています。希望とは、ひとつの哲学がもつことのできる祝福のようなものでしょう。

 ・・・(中略)・・・猫の本質とはなんでしょうか。いいえ、そのような問いにわたしは決別することができたと信じています。犬たちと猫たちの対話のために、そして、詩人であるあなたの領域でしょうが、言葉というものの持つ力への信頼のために、いま、わたしはこう考えているのです。猫とは、人々が猫と呼び、それを愛するもののことだと。猫という言葉の中には、ひとつの思い出、ひとつの暖炉、ひとつの記憶、そして無数の思いが込められているでしょう。そこには猫という形をとった人々の生活があり生があるのです。起源や本質ではなく、猫とは、猫のように愛されるものではないか、もしかすると、いつか猫が滅んだとしても、純粋猫がいるからではなく、人々の猫をなでるしぐさや、猫という言葉のやさしさゆえに、猫はあらわれずにはすまないのでしょうか。人々は終わりのない猫というゲームのなかで、愛したり憎んだりしているのではないでしょうか。

 それに、わたしは思うのですよ、親愛なる詩人よ、猫とはいつも、われわれからすり抜ける気ままな生き物ではなかったか、とね。だからわたしは、こうもいえると思うのです。すべてのねこは存在しない、そして、猫をつかまえることはできない、と。

 この走り書きは、かれが三日後に暗殺されたために投函されなかったらしい。この走り書きを読んでわたしはますます確信をつよめた。やがて、世界中にひろがった「猫の眠り」はすべてのネコたちを静かな眠りにさそい、その夢のなかでネコたちは、あの哲学者の言葉がかけた祝福と出会い、徐々にその体さえかつての猫たちのものへと変容していくだろう。そして、その新たな猫たちはたしかにまだかつての純粋猫とは違っているかもしれないけれど、どんな遺伝子操作によっても得ることができない、あの気ままさと、猫という概念から逃れ去るというあの猫の本質を手に入れるのではないだろうか。ネコたちをどこか縛っていた、あの不自然な純粋猫への恐れを脱ぎ捨てて。そのとき、きっと人々は純粋猫とはなんだったのか知るのだろう。わたしはそう思うのだ。それはわたしの妄想だろうか、しかしわたしには確信があった。

 数日たって、メルロとポンティがついに眠りについた。わたしはかれらを寝かしつけ、しずかな、滅びに瀕したように静かな町並みをあるきはじめた。誰一人として声はなく、奇妙な長やかさが世界を覆っていた。疫病が人間に感染しないかどうすらわからないままにパニックにおちいっていた先日までの世界とはことなり、空白がすべてを支配しているようだった。

 言葉が世界を直接かえてしまうということがあるだろうか。かつてわたしはそんなことを信じてはいなかった。いま、わたしはウィトニャンシュタインの言葉が、変容をながいあいだをかけて変えたのだと信じている。それは、呪術のようなものではない。猫であるということは、人とともに生きるひとつの根源的形式なのだ。人々が、かれの言葉の遠い波紋によって、(そうだあの投函されなかったメモはどうしてあんな場所にあったのだろう)人々が猫との付き合い方を忘れなかったからこそ、蓄積された形式の祝福は、現実を変容させたのではないだろうか。

 わたしは、そうして家に戻り、床についた。

 夢の中で、あの哲学者の微笑をみたような気がした。

 そして、わたしは何かが胸に乗っている感触で目を覚ました。

 目を開けると、メルロとポンティはめんどうくさそうに、

 にゃあん、と鳴いた。(00/08/12)

 さつま芋

 もちろん、あなたはわたしがオサツ・スナックの話をすると思っている。しかしそうはいかない。まず、椅子に座って気を落ち着けることだ。そう。気が高ぶっていてはまともな話もできない。たしかにあなたは昨日タカラクジがあたったかもしれないし、そうでないかもしれない。そうだからといって、問題をこんなに楽観的に捉える権利はない。あなたはしあわせかもしれないし、不幸かもしれない。そうだからといって、自分を尺度にして他人を計るなんてもってのほかだ。かのソクラテスだって、モオツァルトのことをはじめてあったときは「うさんくさいヤンキーだと思った」と晩年になって述懐している。ことほどさように問題はむつかしいのだ。待ちたまえ、それは気を楽にとはいったが、カウチポテトとは行きすぎだ。せめて、そう、ポッキーくらいが適当だろう。そうだ、ほら、いま、正午の鐘がなった。行くことにしよう。(00/08/04)

 エミールがある日わたしにうち明けた。

 ぼくな、あんな、分裂で殖えんねん、でな、せやから、きみとな、子供つくれへんねや。

 だったら、子供のあなたを頂戴。

 エミールは、それでも、その子に愛を教えることは出来ないと悲しげに告げた。

 私は、それでもいいと答えた。(00/08/12)

 最低

 死体の肢体をお慕いしたい、押し倒したい。下をしたい。
 骸骨は陽気な存在で、地に葬られたものはやがて芽吹く。
 一粒の種もし死なずば……とはいえまた不毛を愛す。(00/08/12)

 素人

 旧友がアダルトビデオの素人という言葉について、素人の素人性とは何か、ということを言っていて、何度もかれが説明してくれるのだけれど、そもそもかれの「もんだい」がどこに存在しているのか分からなかったので、みんなで隔靴掻痒の気分でこまったものだった。ヤラセであっても素人性がある場合もあるだろうし、じゃあ、恥じらいとかそういった内面性が基準なのかときくと、どうもそうではないらしく、じゃあメディアと受け手の関係の問題なのかなあといってもそうとも限らず、どうにも分からない。純粋に業界へのコミットの度合いと考えてもずれるみたいだし、エロティシズムとしての不慣れさみたいなものとしても違うらしい。なんともわからない、はなしである。(00/08/04)

 あんちくしょう

 そんなに憎くはない。(00/08/04)

 蜜柑 

 この境界を蜜柑星人にして見たらどうだろうと考えた。しかし普通の蜜柑星人にはならないにきまっている。われらが俗に蜜柑星人と称するものは、ただ眼前の人事風光をありのままなる姿として、もしくはこれをわが審美眼に漉過して、絵絹の上に移したものに過ぎぬ。花が花と見え、水が水と映り、人物が人物として活動すれば、蜜柑星人の能事は終ったものと考えられている。もしこの上に一頭地を抜けば、わが感じたる物象を、わが感じたるままの趣を添えて、蜜柑星人布の上に淋漓として生動させる。ある特別の感興を、己が捕えたる森羅の裡に寓するのがこの種の技術家の主意であるから、彼らの見たる物象観が明瞭に筆端に迸しっておらねば、蜜柑星人を製作したとは云わぬ。己れはしかじかの事を、しかじかに観、しかじかに感じたり、その観方も感じ方も、前人の籬下に立ちて、古来の伝説に支配せられたるにあらず、しかももっとも正しくして、もっとも美くしきものなりとの主張を示す作品にあらざれば、わが作と云うをあえてせぬ。(00/08/12)