偶景








 拾い上げた木の葉の裏側に張り巡らされた葉脈は奇妙になまなましく動物的でさえあった。

 緑色は二郎の掌に伝染しそうな暗鬱な耀きを放っている。吸い付くような瑞々しさに怯えさえ感じて、二郎は掌を閉じようというかすかな動きさえすることができなかった。思い切って握りしめると、破裂したように手の中にシミが広がり、ぎざぎざが刺さって、曖昧な苦痛が拡がった。

 残骸を握ったまま、もう一枚、拾い上げようと腰をかがめた二郎の背後で、敷き詰められた地面の上の枯れ葉が波立つのが聞こえた。「センセイ、お待ちよ」有里江は時代錯誤なまでにあでやかな金と赤の振り袖の存在をひけらかしながら、軽く、切って捨てるように声を放った。

 二千年四月、東京の大気は累進する汚染のなかで奇妙な緊張を帯びている。この不幸な五年の傷跡を微細な粒子のように含みながら、ウィリアム・ギブスンの「あいどる」が書き記したような幻視的な再建の恍惚がきざしとして肌寒い大気をしるしづけていた。都心では豪雪がその支配権を誇っていたが、ここ郊外の一角では濃密な枯れ葉のざわめきだけがリアルさを抉っていた。

 あの落下の際に見せる少女たちの恍惚の表情、何かをむしろ獲得しようとしているかのような、不健康なところのない、決然としたあの陶酔の……二郎はあの奇妙な精神的伝染病、翼有る絶望の氾濫にほかならなかった天使病の記憶にしばし取りつかれた。紫璃亜があの朝言いかけたときのあの躊躇い、永遠のように叫び続けるやかん、ニュースはあいもかわらず連鎖的な投身自殺を報道し続け、学校が閉鎖された土地さえあったが、奇妙なことに症状は鳥のように素早く激化するのだった。紫璃亜はあのときすでに妊娠していた。そのせいだろうか、彼女がほかの天使たちのように忽ちその身を空に委ねることなく、一週間の間ためらいつづけたのは。

 枯れ葉が視界を瞬間覆った。佇む有里江の背後には古い教会が建っている。その背後には伐採の入ったことのない原始林の暗闇が拡がり、威力有る沈黙をはらんでいる。「センセイはぼくに何を期待しているんだろう。ユリ。ぼくはただの敗残者だよ」有里江は答えず、導くために飛び石を歩き出した。ノイズが走る。二郎は自分のことを或る複雑な亡命状態において把握していた。かれの国籍はすでに滅んだ国にあった。いま、在留資格に於いて東京にかれはいる。だが他方で、かれはまさに日本からその国に一度、帰化したのだった。亡命の失敗故の亡命として、もはや彼にはひとつの敗残者の意識があるだけだった。

 振動する微細な不安のような大気をくぐりながら、二郎は目の前を行く有里江のコラージュのような着物の複雑な模様に見とれていた。それは彼女の身体の輪郭を形作るというわけではなかった。むしろ何か曖昧で分裂した、錯綜した断片的なイメージを幻惑的につくっては消していくのだった。まるで記憶そのものの構造を図解しているかのように。「どうぞ」

 扉は何気なく風化した煉瓦に取り囲まれたそれほど大きくはない片開きのドアで、地面から二段だけ石段で高くなっていた。二郎は、急に胸の痛みに襲われるのを感ぜずにはいられなかった。

 紫璃亜からの最後のメッセージは携帯に残された一通のメールだった。彼女がかれの心を捉えたのは、彼女が取りつかれていたひとつの狂気のためだった。それは狂気と云うよりも理由の分からない深い一つの確信と云うべきものだった。紫璃亜はあらゆる男たちの精液の中に、本当の現実を覚醒させるべき、選ばれた精液が存在して、その精子を受胎することによってはじめて彼女の生存は意味を獲得すると考えていた。彼女の観念が特異だったのは、受胎に意味があって、受胎される子供そのものには何ら特別な意味を感じていないと云うことだった。何処からそうした古代の巫女のような奇妙な観念を手に入れたのか、まさしくそうした古代の淫蕩な巫女たちのように、彼女は緋色の衣をまとった憎むべきものたちの母、あのバビロンの大淫婦のごとき日々を送っていた。

 空から無数の傘が降る時が来るのよ、ジロウ

 暗闇の中、祭壇というのだろうか、教会の入り口からはしる両側を会衆のすわる長椅子に埋められた廊下のつきあたり、十字架を背後にした演壇のまえに、人影が見えた。かれはセンセイ、というネット上ででだけ有名なペルソナの正体についてさまざまなうわさを聞いていた。かれはさまざまなところで噂され、さまざまな幻影をまとっていたが、その権能の、そのプレゼンスの実体は奇妙な偶然を引き起こすちからだった。それが予言であるのか、それとも奇妙な偶然を何らかの形で実行する組織的なちからなのかは知れなかった。ただ、センセイ、を特異な神話がとりまく理由となったのは、その奇妙なちからが、けっして意味を持つ整合性を持たず、些細な出来事の集積でしかなく、しかし、だれの目にもその象徴的な曖昧なちからが明らかだったからだった。

 暗闇に目が慣れると、その人影は、一体の、表面に無数の文字がプリントされたマネキンだった。二郎が驚きに打たれて振り返ると、ドアをいつのまにか有里江があけて入ってきていて、手に持った蝋燭に灯をともして、云った。「わたしがセンセイよ、二郎、座って」

 彼女は長椅子のひとつにすわった二郎のまえで、一台の薄いノートを拡げた。蛍光で照らされたその画面には冷たい色調で世界地図がいきもののように脈動していた。ああ、このなまなましさは、耐え難い、そう、二郎は思わずこみあげてくる吐き気を身内に感じた。振り袖の狂女のような派手なかんざしをさした姿のまま、彼女は世界地図の上に疫病のようにばらまかれた細かい赤い点をさしていった。「絶望だけが持つことの出来る翼というものがあるわ」

 外では近づいてくる車の音がしていた。