冬の胡蝶
荘周ゆめに胡蝶となるか、胡蝶ゆめに荘周となるか。(「荘子」)
胃の中にきっと虫がいるに違いないな、と真は誰もいない部室の机に突っ伏して顔だけ横に向け、片目で天井を見上げながら呟いた。
机は年月で何かを塗りたくったように変色し、プレハブの部室の殺風景さに似合っていない。食べてばかりいる。いつまで食べても食欲が落ちない。新聞部の部室にはいつも人がいない。理由は簡単だ。彼しか部員がいないからである。薄暗いモノトーンの部室で、ひとり、かれはぼんやりして、追い出しの音楽が鳴る頃にゆっくりと帰り支度を始める。
大きな机の上にはちらかった古い、かつて部の出していた学校新聞が積み重なっている。退屈すると、真はそのとうてい読み切れないであろうコレクションを手にとって読み始める。
それに、きっと、穴もあいてる。
たとえば、こんな記事だ。
二年前の学校新聞に依れば、彼等の学校の敷地には以前、軍事工場が設置されていて、いまでもその跡が壊れたささやかな校庭のすみにいきなりあらわれる何処にもつながっていない階段や、あけてみると土で埋められていて字の読めないプレートに出会うことになる鉄の不思議な扉というかたちで残っているのだという。このときの新聞部が郷土史家の話を聞いたり図書館で調べたりなどしたことが羅列されていたが、真の注意は、モノクロームの或る黄ばんだ写真へと惹きつけられた。
それは資料として掲載された戦時中の軍事教練風景の写真だったが、整列して何か体操のようなことをしている生徒たちのファインダーから微妙にずれた場所へ向けられた視線は空虚なイメージのままに凍結し、背景の空にはノイズなのか、皇軍の、あるいは米軍の機影なのか、奇妙な黒い点が写っている。手前の手を大きく振り上げているもんぺの女生徒だけはほかの生徒たちが枠の外の同じ一点を見つめているのに、ひとりだけ、その瞬間だけなにかに気をとられたのか右手の別の画面外の一点に、何か、非常な気がかりでも有るかのように視線を向けている。真は、その粒子があらいためにさだかではない白い横顔の目鼻立ちに、記憶の網を刺激されるような気がかりを感じさせられて思わずルーペで見直してしまった。
だが拡大された部分は粒子の点の集合に変わってしまっただけで、何の謎も明らかにはしようとしない。あやまちを悟って真はとりあえず立ち上がり、ポケットをさぐって部屋の外の自動販売機に珈琲を買いに出た。廊下のはずれでは誰か女生徒が向こう側の誰かと話しているらしい。意外に肌寒い廊下で暖かい缶コーヒーを取り口から拾いあげると、真はまた部室に戻った。
何の記憶だろう。恐らくこの女性はいまや老婆になっているはずである。いや、生きていない公算も大きい。それにこのときの顔で知っている可能性などほとんどない。真はすぐになかばあきらめてなかばまだ思いだそうとつとめながら、椅子に躰を預けて窓の外の校庭の野球部の練習を漠然と見つめ始めた。
野球部は、ことしは選抜にえらばれなかった。夏も、見込み薄だ。真は野球部の部室に友人を訪ねていったときのことを思い出した。部室長屋の比較的グランドに近い良い場所に陣取っている野球部の部室には、なまいきなことに二部屋有って、一方がミーティングルームで、他方がロッカールームだ。厚遇されているのは明らかだったが、真にとっては友人が辞めさせられそうになっているということのほうが勿論気がかりだった。誰何されて入ってみた部室にはすでに着替え終えた制服の部員たちが居並び、寅彦は出口を無くした異邦人のようにどうしようもない顔つきで壁際に立っていた。交渉と難詰と主張はえんえんと続いたのだが、真はもはやそれらの経過をまるで思い出すことが出来ない。ひとつだけ鮮やかなのは、決裂に漸くたどり着いて部室を出ようとドアに手をかけたとき、どこかからピアノの音が聞こえてきたことなのだった。
そういえば、いま考えてみれば音楽長屋はグランドの反対側にあり、決して聞こえるはずはないのだったが、そのときはどこかのクラブなのだろうと気にも止めなかった。
はいるよ。
声に驚いて顔を上げると、ドア近くからなかをのぞきこんでいるのは十二歳くらいの何処から紛れ込んだのか利発そうには見えない男の子で、別にランドセルを背負っているでもなく、まるで所在なさのあまり旧知の下に遊びに来た、とでもいうような雰囲気だ。目は大きく見張られていたが、はっきりと読みとれるような表情はなにも浮かべていない。そのせいで真は何故か青空を見ているような気にさせられた。
男の子は入り口に近い方の椅子を見つけると飛び上がるようにして座って落ち着いてしまい、そうして、何か催促するように真を期待した目つきで見た。真は台詞を忘れた俳優のような気分になったが、考えても何を男の子が待っているのか分かるはずもない。そこで、漸く口を利いた。
ひとり?
子供は間を空けてからやっと意図を解したのかうなずいて、引き続いて沈黙を守った。真も暫く気まずく子供の容姿をながめていたが、えい、面倒だ、めいめいてんでに勝手にすればいいのさ、という唐突で場所柄にも似合わない捨て鉢な情緒が不意に溢れだして、結局、放っておくことにした。
新聞をもう一度取り上げると、黄ばんだ写真の表面をまた子細に確かめてみる。何か収穫があるわけもなかったが、考えは何となくまとまってきた。どうせいつまでも同じ活字を追っていても埒があかないのだ。図書館にでも行って関係の有りそうなものを調べてみたら、少しは気が済むだろう。心は急に決したのである。
出ようとして、子供をどうするか、須臾のあいだだけ悩んで、真はものといたげにかれのほうに視線を向けた。気がついた男の子は、ちらりと一瞥して、また視線を手元に戻した。どうやらこのままここにいる気らしい。その手元ではいつのまにか何処からかマジックを取り出して、自分の手にさっきから何か書きつけているのだ。それにしても子供が何かに集中している様は、どうにも、動物のように余念がない。
図書館は古い洋館である。すでに夕暮れていて、本館から図書館への渡り廊下は壁が無くて外と行き来が出来るようになっているのだが、散発的な話し声の残響がますます寂れた風情をあたりに漂わせ始めていた。構内用のスリッパをぺたぺた云わせながら、真は図書館の黒い大げさな木製の門をくぐった。形式だけ残された門のさきにはすぐ受付があって、見ると、今日は旧知の写真部で図書委員の村田安積が座っている。ほかには人影がないから今日はひとり当番なのだろう。
「なに、やっと取材でもする気になった?」
安積は何度も冗談で真に新聞を再刊することを薦めていた。撮った写真を校内の人間に見せるのに利用したいというところらしいが、もともと、彼女は報道写真のほうに志向があるということらしい。実際それは、うわごとのように安積はロバート・キャパのことを云うので、まわりの人間にとってはとくに知るのに洞察力がいる話でもなかった。
「知らせる価値のあることなんて世の中で起きちゃいないよ。先生は?」
「帰った。じゃあ、なに、その古新聞」
「これは、趣味だよ。好奇心」
「気になるんですけど」
「悪かった。言い回しだけだよ、つまんないって」
「分かんないじゃない、そんなこと、何」
「ていうか、説明すると、長いんだよ。いやそんなに長くないけど、面倒くさい」
誰もが永遠を望む。永遠が何かも知らないままに。
真は奥のテーブルに座ってほっと一息つき、記事を拡げて、さて、どうしようか、と考えた。やはり、安積に資料の所在を尋ねなければならないらしい。そうすると、さきほどの様子からして安積はまず間違いなく首を突っ込んでくるだろう。他人を関係させて結局たいしたことなかった、という顛末になるのをかれは恐れた。
立ち上がり、校史の置いてある棚へと取りあえず向かう。
部室に戻ると、もう男の子はいなくなっていた。真は部屋の電気をつけ、黒板に大きな字で、こくばん、と書いてすぐに消した。それから、椅子に座って、鞄に机の上に拡げていたいろいろなノートや鉛筆やコピーやバインダーやを片づけ始める。すると、追い出しの音楽が放送室からスピーカーを通じて流れ始めた。よく知っているが、曲名を知らないクラシックだ。
出ようとしたところで、ドアの所に気配を感じた。振り返ると、安積が立っている。「もう帰り?」「見ての通りだよ。粘っても何かしてるわけじゃないし」「結局なに調べてたの」「教えないといけないんだ、やっぱり」
廊下にはもうひとの気配がない。「そういや図書館いく前にここに子供いたんだ。知らない、誰が連れて来たんだろ」「隠れて子供いる生徒がいるってこと」「下世話だなあ。あんな大きな子はいないよ」「誰かの弟か妹でしょ」「男の子だけどね、なんか気味悪いよなあ」「怪談には子供がつきものだものね」「……」「ひとの顔見ないでよ、何」「魂胆があるんだろ、安積」「ああ、そのことか」「新聞は出せないよ、だいいち人手がないんだ、出したって誰も読まないよ」「あー、そのことじゃなくて」めずらしく言いよどんだ安積は校門をちょうど通りすぎるところでふとグランドを振り返り、向き直って視線を合わさずに切り出した。グランドの野球部の姿はいまや影も形もない。
「あさみ、知ってるでしよ、軽音の」
「あの、いかにもギャルっぽいやつだろ」
「あの子がさー、入っちゃってさー」
「入って、って何に?」
「宗教」
「……で、何処からおれが出てくんの」
殆ど手の近くも見えないくらいにあたりは暗くなってきた。歩道橋を通り過ぎて、信号が青になるのを待つ。
「集会に来いって云われてて、このまえ、断りきれなくてさ」
「げ。ついてこいってこと? まじで?」
「だってさー、ひとりでいったら洗脳されそうじゃん」
「だー、断りゃいいじゃんよ。めんどくせえ」
「だってあさみ、ずっとあたしつるんでたし、凄いやなんだけどでも…」
「…あのさ、写真」
「写真?」
「図書館で調べてたやつ。むかしの古新聞の記事が気になってさ」
「なんか変だったの」
「いや、全然。ただなんか気がかりで」
安積と三叉路で別れてしばらくしてコンビニの横を通り過ぎながらふと、真は自分が、ものすごくひどいことをしているような意味不明な感覚に襲われ、もの寂しい道をひとり行きながら、のどが渇いていた。
きっと、穴があいているんだ。