とても悲しい








 なんだか、いいようのないほど悲しいことばかりなのでした。

 そのせいでなのか、この頃はいつも、睡たくてしようがないのです。

 ふと、目をさめて、上司が置き忘れた書類を見ると、蛍光ペンの走り書きが威かすように、意味の取れない漢字を伝えてきたりもして、けれど、それが現実であるかどうかさえ、気にならないようなねむたさなのでした。

 日毎に眠気が募っていき、気がつけばコップというコップの中では天使が上目遣いでわたしのことを誘うのですが、それにももう、慣れてしまいました。

 簡単な言い方をすれば、わたしは事務員ということになるのだとおもいます。エクセルの項目の文字列が何であれ、わたしがあまり気にしたことがないのです。残念なことはといえばキータイプが同僚に比べて遅いことと、見栄えのする資格を持っていないということくらいでしょうか。

 そして、或る朝出社してみると、不意にフレックスタイムが導入されていたのでした。

 ところで、納期もべつに遅くは成らず、ノルマはひごとに厳しくなるばかりでしたが、奇妙に雰囲気は弛緩して、そのくせ、ある日突然机がなくなるということがうち続いたせいでしょうか、わたしたちの誰もが会社にいないということはなくなって、奇妙なローテーションのように、わたしたちは予定表に、遊びの予定も書き込むようになりました。出社と退社のしるしはだんだん使われなくなって、ただ、不在、あるいは仮眠中というしるしが繁殖していったのです。

 まるで静かにコンベアを流れる区切りのないゆるやかに溶け出した来世の記憶のような進行が甘い筋肉の倦怠とぼんやりとした寝起きのもやとを抜けてすすんでいくのです。

 社屋にはいつのまにかコンビニが入り、わたしは夢のない白昼夢のなかで数字のセルを動かしながら、なにもかもが同時進行しているひとそれぞれの異なったリズムが旋律を奏でる、このうつくしくも幻想的なレースのことを、ふわふわした気分で味わっていくのでした。

 そうしてただ清掃のおばさんたちだけがわたしたちにひとつの不動の秩序を知らせ、まるで太古のこびとたちのように目に見えぬ場所で万事を計らうその魔術めいた姿に、ゆえしらぬ神秘の影を感じもしたのです。

 或る真夜中の正午に、そのときということばかりではなく仕事が区切りになったので、中二階のコンビニにいって、わたしは250円のお弁当とリッツを持ってカウンターに向かいました。アメリカ進出も順調だというこのコンビニ・チェーンの方針なのか、店内は恐ろしいほどにこうこうとひかりが溢れていて、互いの顔をはっきりと見極めることも叶わないかのようでした。

 おかねを渡して、計算を待ち、漸くに顔を上げた店員の顔は、見れば、いつか机と共に真夜中に失った同僚のものでした。ミズカミというその同僚は、すべてのコンビニ店員がそうであるような退屈した表情でわたしにお釣りを返すと、そのまままだ話すべき事があるという素振りをまったく見せません。いいえ、わたしを認知しているようでさえ、ありません。

 とまどって、何度もこころのなかで記憶の像と照らし合わせてもかれが同僚のミズカミさんであることに間違いはありません。「リストラ」されてこんなところで「再会」して気まずいのだと思おうとしましたが、言葉はどうしても引用符の中に入ってしまい、間違った用途に言葉を使っているという違和感が拭えません。

 対称的にひるまでもほとんど照明のない廊下をあるきながら、わたしはこのぼやけた記憶と現実との齟齬にどうしても引っかかっていました。それで、五時間ほど経ってからわたしはふたたび机で目を覚まし、コンビニとの関係を扱っている部署を尋ねる気になっていました。

 たまたま居合わせていた上司の一人は(わたしたちの不定期な仕事のやり方のために、わたしには考えてみれば無駄なことですが同じ仕事を扱う双生児のようなふたりの上司がいるのです。かれらは奇妙なことにつねに携帯で連絡をとりあっているので、ほとんどひとりの人物で有るかのようです。そういえば、わたしはかれらの容貌の区別を意識していたでしょうか)興味がなさそうにわたしの退出をゆるし、ただ、まるで長い旅に出るのを予期しているかのように、じつにこまごまとわたしの不在の間の分担をたしかめているのでした。

 不思議なことに、総務には誰一人ひとがいませんでした。電気の消されたオフィスにはパソコンのスクリーンセイバーがタイアップしている企業のアニメをエンドレスでながし、波のように静かな作動音だけが意識の下あたりで鳴り続けています。そのまま、エレベーターに戻って、目算もなく地階のボタンを押して、潜水めいた感覚に身を浸していると、不意に二階でケージがとまり、ドアが開きました。

 乗ってきたのは三人組のどことなくせわしない痩せた二人と不満げに太った一人で、しきりに天国には果たして海があるかということを話しています。それもどうやら何かの見てもいない映画から思いついた話題のようで、何処か真剣みの足りない議論の様子でした。痩せて背の高いほうが、天国には海なんかない、あるのはゴルフ場だよ、と投げやりにいうと、痩せて背の低い方のおとこが、劣らず物憂そうに、プライベートビーチがあって、ホテルは馬鹿高くて結局とまれやしないんだ、と云い出しました。すると太った目の細い男は、なにか決然とした調子で、天国はもう海の底なんだよ、と呟きました。三人はそのまま互いに対して値踏みするような不満そうな視線を向けたまま、黙りこくって到着を待っています。三角形にあやうくはさまれるのをさけて、すみでわたしは段々と目的を忘れかけていました。

 エレベータが地階につくと、どやどやとしかも別の三つの方角に男たちは走り去ってしまい、地階にはほとんど照明がなかったので、あっというまにわたしはかれらを見失ってしまいました。降りてみると、地階はひんやりとした広々とした場所で、たしか駐車場か倉庫であるはずなのですが、あまりにくらいのでそのどちらであるか区別することが出来ません。

 ここにいることの意味を疑いかけてエレベーターに戻ろうとしたとき、配車がかりのおじさんや警備員さんは、コンビニのことについてなにか知っているかも知れない、とい考えが浮かびました。たしか、テナントで入っている店舗の搬入や出入りはみな駐車場のほうの出入り口を通じていたはずでした。

 しばらく灯りを目指して歩きまわりましたが、結局一周してしまい、ここにはあのエレベーターのほかにはただ非常階段しか出入り口がなく、ただ空虚な広場があるだけだと考えなくては成らなくなりました。だんだんと疲れてきて、寒気があしもとからあがってきたので、エレベーターのまえに戻りましたが、いつのまにか赤い故障のランプがともっていて、いくらボタンをおしても動こうとしません。泣きたい気持ちになりましたが、気を取り直して、ちょうど地階を対角線に隔てたところにある非常階段に向かいました。

 階段からはまばゆいひかりが漏れていました。滅多に使用することのない非常階段が、これほどあかるく照明されているのは、その静けさとあいまって不気味でした。何階かあがったところでふと見上げると、同僚のニシダくんが、ちょうどさぼっているというふうに、階段の手すりに半身をもたれて、煙草を吸っているのに気がつきました。

 「ねえ、ここ何階?」
 なんとなく嬉しくなって声をかけると、ニシダくんは驚いたような顔をして、
 「いや、違うよ、ここじゃないって」
 もう少しで、ニシダくんのところにたどりつくところでしたが、思わず足を止めました。
 「なにそれ、何処じゃないの?」
 「まずいって」
 そういうと、ニシダくんは非常階段から出て、その階のフロアに、逃げるようにではないけれど、すこし足早に行ってしまうので、わたしは思わず追いかけて、薄暗いそのフロアに入りました。この階はつかわれていないらしく、ひとけがまるでありません。かすかに廊下の向こうに、ニシダくんらしき煙草の赤いいろが見えています。
 「ちょっと、なんなの、ねえ」
 追いかけながらたしかにここはもといたフロアではないのだ、と思い始めたのですが、やはりただ電気を消しただけの同じ場所だという気もしてきます。ともかくニシダくんにきいてみないとと思いながら足を早めるのですが、かれは何度も角を曲がり、そのつど見失っては、煙草の赤さで見つけることが出来て、だんだんわたしはニシダくんのことを追いかけるためにこの日のすべてのことをしていたような気になってきて、ニシダくんニシダくんという言葉ばかりがあたまのなかを巡り始めてしまい、その繰り返しのリズムがあんまり甘美なので、わたしはニシダくんに求愛しているような、ニシダくんを脅かしてどうにかしてしまおうとしているかのような、奇妙に真摯でかがやくような情熱が湧いてくるのでした。そうして、この感情のためならどうなってもいい、すべてはこのためなのだったのだとひたすら気がはやりました。

 気がつくとわたしは、見たこともないオフィスのまえにいるのでした。そしてその灯りと、オフィスのなかではたらく見知らぬ人たちを見ていると、ニシダくんという言葉をすっかり忘れて、まるで映画を見るように窓越しにその仕事のすすみかたを見てしまいました。しかし見てみるとそのひとたちの制服はわたしの会社の制服とはまるで違うもので、あつかっている商品もなにか別のもので有るかのようでした。わたしは、何か、胸をかきむしられるような懐かしさといたましさの感情にさいなまれながら、硝子越しにその光景を見ていなければ成りませんでした。

 オフィスの中の誰かがわたしに気がついたのか、手を振ってくれました。
 わたしはどうしていいか分からず、思わず、ドアを開けて、言い訳をしようと口を開きかけました。しかしそれよりもさきに、この部屋の上司らしいひとが、少しいらいらした調子で、
 「遅い、ほらはやく仕事しろ」とあごで或る席を示します。わたしはなぜか安心して、ふらふらとその席に座りましたが、なにひとつ見覚えのないその席のもとの持ち主の無数の痕跡やメモが、ひどくいとしいのでした。そうして、思わず目から涙がこぼれました。

 わたしはこんなふうにして続いていくんだ、と漠然と悲しかったのです。

 まるでわたしに刺された母のことをなつかしく思い出すように、わたしは、その誰かみしらぬひとのデスクの立ち去ったばかりの痕跡を、見つめていました。こんなふうに、なんでも続いていくんだ、きっと。夢の中でも。