幾夜の幻、不在のひかり








 芹沢は穴を掘る手を休めて、田村の土に汚れた顔をまじまじと見つめた。あたりはまだ暗い。穴の横には水原の死骸がビニールシートにくるまれて横たわっている。二人の傍らに置かれてあるガス・ランプの明かりがさかしまに下から彼等を照らし出している。

 田村は荒い息をつきながら蒼白な表情で土と取り組んでいる。芹沢は冷ややかな風に誘われて空を見上げたが、月は暗雲に隠されて何処にあるかも分からない。芹沢は、誰に云うともなしに、いや、むしろ水原に向かって、殆ど誰の耳にも届かないような低い声で語りかけた。三人をつつむのは葦の背の高い群生で、人里から離れた凄艶な静けさがあたりを圧している。

 結末は何時だって端折りたくなるようなできの悪さだよな、水原、おまえだって、こんなところに埋められると思って生きてきたわけでもないだろうに、全く、おれたちときたら、何をしているんだか。

 死んでいるだけでも恥ずかしいのに、そんなこと云わないで。吹き出しちゃうわ。わたしは天国にはいけそうにないけれど、それはわたしたちが悪いことをしたからじゃないわ。天国になんか似合わないからよ。こんなときだからなおさらあたしは自分が女王になったような気がしてる。いまさら悔恨におぼれようったって許さないわ。

 芹沢は勿論唇が動いているはずもない水沢のうつくしい死骸を一瞥して、もう一度土を空に跳ね上げた。しずかに穴を掘っていると、夜が明けてから為すべき事が漠然と思われてくる。だがこころはいまだ決していなかったし、いまこの瞬間でさえ現実を受け入れられているとは自分で思えなかった。時間はまだ流れていると云うよりもただ降り積もって行くようだ。

 たしかにおまえからおれは逃げようとしているのかもしれないな。こうして埋めて地獄だか天国だかに譲り渡してしまって、そうして改心してしまえばもうおれは借金なしで再出発出来るというわけだ。そんなふうにしておれを縛ることがおまえの好きなやり口だとはたしかに思えないな。だが、いくらおまえだって死んでしまったからにはおれたちのことを恨んでいるんだろう。そうでなければあんまり上品ぶった言いぐさというもんだぜ。ともかくおれたちがおまえを巻き込んだんだからな。

 田村が穴の底に降りた。懐中電灯でかれのまわりを照らしてやる。茫っと浮かび上がった半円の白い空間がまるでひかりのささやかなため池のようだ。芹沢はスコップを地面に突き立てて、それにもたれながら、内部の冷たさを感じていた。内臓から冷えていくような奇妙な感覚が、むしろ皮膚をあたたかなものとして感じさせていた。田村がまた一掬い、土くれをはねた。

 生きていたときにはそりゃあ死にたくはなかったわ。だけどもう死んじゃったし。生き返らせることができないのなら、弁解なんてちょっと失礼じゃない。怒ってなんかいないから、一緒に眠る?

 ちかくを流れるかわのせせらぎが聞こえていた。その流れにのせて、死人の穏やかさが芹沢には触れられたようななまなましさで迫ってきた。思わずしゃがみ込んで、田村の奇異の視線を受ける。

 田村は汗だくで汚れていたが、まるでひとつの偉大な事業にでも邁進しているかのように、筋肉の実感をみなぎらせて、余念もなく穴を掘り続けていた。しゃがみ込んだ芹沢の鼻先には途端になまなましくぎらぎらした草の匂いが夜の闇に似つかわしくない明晰さで立ち現れた。その臭いの刺激的なするどさはまるで嗅覚に於ける射るような光線にも似ていて、芹沢の躰は瞬間的に覚醒したようだった。

 云われなくてもどうせ毎日にんげんは少しづつ壊れていってるんだ。わざわざそんなヒステリーを起こすには及ばないよ。おまえがそれほどロマンチックだったとは知らなかった。そんなことより、ひどいありさまじゃないか、化粧も落ちて、髪はばらばら、放っておけばそのうち臭くなって、そのうえ何をされても文句もいえないと来てる。世間の奴らが火葬にしたがるのも当然だな、まだ寝るには早いとおれは思ってるぜ。いっそ骨になっちまえば滑稽味が出て、悪くないけどな。

 急に、田村が穴の上の芹沢に声をかけてきた。

 ……はらがすいたな。なんかあるか。

 ……ハンバーガーが少しだな。投げるぞ。

 芹沢は傍らに置いてあったリュックサックからマクドナルドの包みを取り出すと、ハンバーガーを二つ取り出して、田村に投げた。ひとつは田村の手に首尾良く収まったが、もう一つは落ちてしまい、穴底に散らば?て光の水たまりから逸れて闇の内に沈んでしまった。田村はそれを視て肩をすくめると、はじめてスコップを穴底に突き立て、ハンバーガーにかぶりついた。芹沢はその様子を見届けずに、自分もハンバーガーを取り出して、(のどが渇いたな)、と考えながら口に入れた。

 オリーブの味が口の中に拡がり、それがぱさぱさに渇いたパンの味気なさと相まって奇妙な記憶を喚起した。それは何処かひかりあふれる地中海の岩場の影の無い酸味の感覚だった。しかしそれは記憶と云うには決定的に異質なものを孕んでいた。勿論、芹沢が海外に出たことなど一度もない。だからオリーブの記憶は経験したことのない出来事の記憶なのだったが、それは虚構でも錯覚でも予感ですらなかった。

 それはオリーブによって運ばれた、感覚の断片だった。まるでそれはあたかも感覚が郵便で送ることができるかのように、オリーブに孕まれていた。孕まれていたと云うよりもそれは断片化されたピースがもう一度組み立てられたかのようだった。

 ついでそのオリーブの潤沢なオアシス的な先鋭さはぞんざいなトマトケチャップの刺激と混濁した。トマトの感覚はしかし太陽の経験を孕んでいるわけではなかった。それはさっき芹沢の鼻腔を刺した草の異様な繁殖への生臭さをかたちづくった。舌はその生殖器ともまがうような生臭さに襲われ、焼き付けられた肉塊の部分へと分解していくどう猛さと混じった。

 芹沢はその内的な感覚の鮮やかな色彩とあたりの暗さとのギャップに戸惑い、思わず瞬きをした。だが刹那の戸惑いのすえにもう一度目を開けると、自分の汗と土の臭いにまみれた身体を通じて、闇の中にひかりをともなわずに溶け込んでいる無数の色彩を聞き取ることが出来るような気がしていた。

 ……はじめるか。

 どうしてあの瞬間、額にキスだなんておセンチなことをしたのかしら。私たちが撃って死なせた人間の誰もがどうして死んだのかきっと分からないでいる。悪のりで、わたしたちは人質に何の根拠もない死を与え、その偶然の適当さに彼等が嘲けられるのを眺めたわ。ただ恐慌状態のなかで、わたしたちは映画みたいに振る舞っただけかもしれない。手の施しようがなくなったのに気がついたときには余計なことを思う余裕なんてなかった。わたしたちは何を失ったのかしら。

 気のせいかも知れなかったが、無数の沈黙の気配がしていた。草むらのなかにそれは潜んでいるようでもあったが、不思議と気になりはしなかった。むしろそれが当然で、いままでそのことに気がつかなかった自分が迂闊だったのだ、という気がした。

 もしかするとおまえはまったく別の存在で、死んだ女じゃないのかも知れない。失ったものなど知ったことじゃない。だんだんおれはそういう気がしてきたよ。おまえだって生きているときはそうだったような気がするぜ。たしかにおれたちは死神を気取ったし、間違いなく愚かな真似だったが、あれはセンチメンタルな真似じゃない。

 手の施しようのないぎりぎりの際で、あれだけが唯一ましな真似だったのさ。意味があったからじゃない、あれが、どうしようもなく孤立した振る舞いだったからだ。本当におれが衝動に身を任せたのは、あのときだけだ。殺人は衝動じゃない。ただの運命さ。

 途方に暮れたような、不意に幼さを帯びた声だった。

 それがあなたの悪意?

 田村が穴をよじ登って、殆ど自動的な仕草で芹沢の傍らに立ち、ゆっくりとなぜかなだめるような口調で云った。「そろそろいいだろう。手を貸してくれ」気がつくとあたりは白み始めている。暗闇はまだ空間に溶けているが、それは薄まって紺色に近づいており、星々がこの期に及んでその存在を耀かしはじめ、田村の黄色い雨合羽に覆われた服装が際だつ。

 水沢の死骸は裸体のまま夜更けとまったく同じように穴の側に横たわっている。そのうつろな瞳は透明な月を無意味に明晰に映している。頭の方に立って、芹沢は足を持った田村と目配せして、一気に穴のなかに放り込んだ。

 柔らかな、重い音がした。

 「さて、どうする」

 「決まってる」

 「へえ」

 「悪事に邁進するのさ」

 二人はデタラメな歌を歌いながらスコップを取り、彼女に土をかけ始めた。

 ------終わり。