幻想携帯紀行 Strange Darkness







 忽ち闇を轟音が押し破って煉瓦の壁面に投影した。

 メトロのトンネルの壁面は殖産興業時代、うるわしの明治の煉瓦で覆われ、かつての海底の教育的切断図解を隠している。河瀬燐花は蛍光灯の黄色いひかりに照らされた車両の最前部のドアの近くでなかばマジックミラー化して彼女の姿を映し、半ばは壁面を延々と映し出す窓と向き合っていた。釣り広告は宗教団体関係の雑誌の広告を臆面もなく叫び立て、潜在的な車内の緊張をひしひしと無意識のうちに変調させている。最近彼女が耳にした報道に依れば、現在の車内の個人的スペースの縮小から生み出される関係ストレスの危険度は、常態で<パトルロワイヤル>なみになる限界ぎりぎりなのだそうだ。実際、この濃厚な相互抑制の見せかけの平穏さは、ただ起爆因子を欠く均衡であるにすぎない。
 カーブにさしかかったとき燐花の携帯が胸元で震えた。サイレントモードにしていたのは彼女にしてみれば珍しい公共心の発露だ。ペースメイカーを乱す危険性という一般的な注意書きからしてみれば実はこの礼節はたいした意味はないものだったが、彼女の礼節は摩擦を避ける必要から発揮されているに過ぎなかったから、エゴイスティックにも必要を優先させたのだろう。液晶画面をチェックすると掛けてきたのは見知らぬ番号だった。見知らぬ番号から発信者を通知して掛かってくる、ということは幾つかの可能性がある。番号が友人からその「友人」へ流出した、または、公衆電話から掛けてきた、あるいは何らかの繋がりがある企業体が自分に用がある、勿論、不注意な、あるいは自信過剰なストーカーという可能性もないではなかったが、どの可能性であるにしても、何となく不愉快な出来事であるのに違いはない。インフォ・コンサバな反応というわけだ。情報はなるべくなら統御可能なレベルに抑制しておきたい。
 躊躇った後、彼女は電話に出た。すると相手は名を名乗る当然の礼節を見事に無視してのけ、燐花にスタッカートを区切るような口調で用件だけを告げた。くぐもった、しかしかなり若い声だ。
 「次の駅で乗り換えるんだ、その電車、危険だぜ」
 口を開く暇もなく切れてしまう。呆気にとられた彼女はリダイヤルを繰り返したが、つながらない。そのまま列車の前方にひかりの筒型の苑のようにして駅が見えてきた。銀河鉄道の発着駅にも紛うようなこの瞬間を不断の彼女は愛していた。しかし今、決断を迫られて燐花は思わずあたりを見回した。あいかわらず、まわりとコミュニケートしないで済むいいわけに、まるで信仰しているかのように雑誌に見入る座席の人間たち、そして互いに巧妙に視線を逸らしながら、放心したように、しかし近づいた駅への関心を示して動き出そうとする吊革に吊られた旅客たち、なるほど、勿論、ただ参考として判断の材料になるものは、あたりまえだが存在しない。彼女はともかく落ち着いて事態に対処するためで、信じたわけではない、という論理にすれ違って、とっさにそれを手元に捕まえた。列車はいま駅構内を走っているがまだ完全には停車していない。
 やかましい雑多なアナウンスとともにドアが両側に開いた。車両とホームの間の深淵を飛び越して乗り移る。いつもこのたびに彼女は舟から舟にうつるときみたいだ、と思う。そうしたメタファーに囚われているときは、線路に水が充ちていないことが不思議で仕方ないのだ。
 降りた駅は閑散としていた。たしかに乗換駅ではあったが、交通量が多いのはこのホームではない。別の主要路線のホームにたどり着くまでには階段をビル三階分は昇ってから一階分降り、そのうえ百メートルほど水平移動しなければならない。乗ってきた列車が行ってしまったのを見送ってから、燐花は手近な青い乾ききった、背もたれのないプラスチックの座席に座って携帯を取り出した。
 さて、リダイアルしても出ない、となればどうしたものか。

 鳴り続ける携帯の電源を切ってしまい、槇田遊貴はベンチから立ち上がった。池袋西口の公園には大きなステージがあり、その近くではスケボーで遊んでいるグループがかなりのスペースを取っている。酷暑で、まわりにいる暇そうな連中、あるいは場違いにきちんとした格好をした、そのせいできちんとした素性ではないことが知れる連中は、どれもかなり元気をなくしているように見えた。妙に活気に溢れているのは消費者金融の広告付きティッシュを配っているアルバイトの若い女たちだけだ。しかし勿論そういう活気はビジネスのなせるわざでしかない。遊貴は相変わらず無駄に高く晴れ渡った空を見上げると、がくんと姿勢をかすかに落とし、そのまま手近なインターネット・カフェ兼マンガ喫茶をさして走り始めた。
 都会で街路を走る人間はいかがわしいものと九分九厘決まっている。多くの場合、かれは追われているか、追っているか、いかれているかだ。どれもあまりご機嫌な選択肢とは言い難い。遊貴は軽い不快のサインと訝しげな視線に取り巻かれながら、自らの作り出す風の冷気と筋肉の機能する快楽を従えて、歩道を走っていく。いくつかの角と横断歩道を越えて目指す雑居ビルが目にはいると、遊貴は心持ち足取りを落とした。そして、次第に減速しながら、その二階へと導く外から直接あがる階段の前にたどり着く。腰より少し低い高さの看板には料金と時間が記されており、飲食物持ち込み自由と謳ってあった。それを薙ぎ捨てるように一瞥すると階段をつま先だけで上り、六畳ほどの雑居ビルの、ほかの階につづくエレベータ、店に入るための自動ドア、非常階段への重そうなドア、トイレ、といったものからなる狭いスペースに立った。硝子張りの自動ドアにはさまざまな文字がペイントされていたが、それでも透かして内部の様子は見える。
 空いているようだ。

 とりあえず地表に出て喫茶店にでも入ることに燐花はきめた。問題の先送りは彼女固有のものにとどまらない一般的な通弊だったが、メッセージが予告した危険という語が、その程度は分からないなりに、ポスト震災オウムの感受性に、地下にいることを耐え難くさせていた。それは識閾下の、ほとんど気付かないようなかすかな苛立ちに過ぎなかったが、こうしたどっちつかずの手がかりのない状況では意志決定を左右する十分な理由に成り得た。象徴的な事件によって数百万の感性が影響を被るということはいっそありそうにないが、そのうえ都内の人間たちはいやおうなしに地下鉄を利用せざるを得ない関係から、地下/閉所恐怖としては当然そうなりそうだと思われたにもかかわらず、影響は発現しなかった。しかし、息苦しさの感覚と、汚染恐怖という空気の論理として、無意識は変容していた、ということは言えるのかも知れない。少なくとも、燐花はこのとき、奇妙な息苦しさに取りつかれ始めていた。背後がなんとなく騒がしくなっているようだったが、彼女はすでに気にとめていない。
 エスカレーターに足をかけてそのまま、しばらくぼんやりとする。この瞬間の人間のほとんど自動的に取る痴呆的な症状が彼女ばかりではなく、もし仮に観察するものがあったとしたら、そこかしこに見られただろう。しかし燐花の表情には、むしろそれを強いて享受しようと云う意識的な素振りが観察された。システムのなかにビルトインされたこうした休息許可の瞬間でさえ、彼女には奇妙な不安が離れていない。
 改札を出ると、燐花は手近な階段を昇っていった。構内はたしかに照明されてはいるのだが、それでも階段をなかばほどもあがると、照明と陽光の質的な違いが感じ取れる。それとともに、音が反響することなく解き放たれて拡散していく外気の音響効果が彼女の耳に親しく拡がった。あがってみると、ここは歩道の少し端にもうけられた出入り口で、すぐ近くには交番と、歩道橋への階段がある。交番の近くにはこのあたりの街路表示板があったので、近づいてこのあたりのメインストリートはどちらか見当をつけ、歩き出した。
 人気はないが、たまに学生風の二人連れ、三人連れが通る。道路沿いの店はどれも最近できたような若者向けの小物や洋服を売るものが多い。しかしそのなかにきわめて突飛に、そしてどうも入るのがためらわれるほど旧式で人気のない蕎麦屋などが立ち混じる。五分ほど歩いて、彼女は喫茶店を見つけた。オープン・カフェ形式のかなり大きな店舗だ。入ろうとして、ドアの前に達しようとしたとき、彼女は不意にそのドアのちょうど真横、柵で囲まれたテラスふうの区画に、傘つきのテーブルがならべられた、オープンカフェと名乗るためだけに存在する五席ほどのうちのひとつに座っている人物から、声を掛けられた。知らない声だ。
 「こっちよ、河瀬さん、ほら」
 それは黒づくめで髪を短く切りそろえた、涼しそうな衣服の、まだ恐らく若く、彼女と同世代かそれより下だろうと思われる小柄な女性で、アイス・カフェ・ラッテをストローで飲みながら、戸外だから暑いはずなのに汗一つかいていない。まるで古い親しい友人にあったときのように、驚くほどにこにこと嬉しそうな顔つきで、燐花が目の前の席に座るのを目で待っている。せかすように、席を指さして招いた。
 燐花はよくないことだろうなと思いながら身軽に柵を乗り越えて、彼女の前まで行った。そして、まだ座らないまま、なるだけ不機嫌さをかき集めて、というのも彼女の嬉しそうな表情は本物だったからだが、詰問した。
 「電話、あなたのいたずらなんですか。そっか、あなたの声じゃない。ひとにやらせたの?」
 彼女はすぐには答えず、笑顔のまま燐花を見上げていたが、不意に云った。 
 「大ざっぱにいえば、そう。でもいたずらじゃないわ。とにかく、座って。ね」
 いすを引いて、あまり長居するつもりはない、とでもいうように半分だけ腰掛けると、
 「説明、してください。危険ってなんなんですか」
 彼女はそれはそのまま聞き流して、店内の方に、
 「すいません、メニューお願いします」
 振り返り、
 「アイスコーヒーでいい?」

 自動ドアの前にしかれた重さを感知するマットを踏もうとしたとき、遊貴は何かが変だ、と気がついた。それは説明は出来なかったが、確実な感覚だった。息を整え、幼少時に習った少林寺拳法のことを想起する。すぐやめてしまったから、かれの現在の格闘戦力の源泉は別のものに由来していたが、いざというとき、漠然としたイメージとして、東洋好きな欧米人ならゼン的とでもいうようなスピリチュアルな集中を必要とするとき、彼に「形式」を与えるのはそのころの記憶なのだった。どうやらおれも変な映画のオリエンタリズムに毒されてるな、とは思いながら実用的な観点からかれはそういう習慣を強いて変えるつもりはない。しかし本当は、当時は身軽に動き回り落ち着きのない少林寺拳法はあまり子供社会ではかっこいいとは見なされず、むしろ空手や柔道や剣道の方が人気があったのだった。勿論、人気という点ならまずサッカーかバスケではあった。
 意識を平穏にして、知覚を鋭敏にする。知覚を海としてイメージし、そこに立つ波を感知するのだ。慎重に後ずさって、壁を背にすると、不意にかれは何が不自然だと感じたか悟った。自動ドアの横に置いてあるゴミ箱がからでなにも入っていない。そしてドア越しに見える内部の飲み放題のサーバから出るジュースのための紙コップが、不断なら捨て場になっている筒状の紙コップ専用のゴミ箱にいくつも積み重なって外から見えるように飛び出ているはずなのに、まったく捨てた形跡がないのだ。さらに注意すれば、客はたくさん入っているのに、カウンターにはひとつも鞄や荷物が預けられていない。
 かれは慎重にかかとを上げたまま膝をおとして姿勢を低くし、階段の下に飛び降りる構えになった。そして、耳を澄まし、頭のなかで、数を数える。いち、に、さん、
 跳んだ瞬間に、背後では鉄の扉が乱暴に開く音と何かに穴があく音がした。振り向くまでもない。階段とトイレの扉が蹴り開けられたのだ。着地して一瞬足の痛みをバネで緩和しつつ躰で感じ、その飛び降りてバネの収縮した姿勢から、再びバネが一気に延びる要領でロケットスタートして走り出した。
 五百メートル走ってから背後を一瞥する。間の抜けた迷彩擬きとスーツ、それから特攻服がいる。全部併せて六七人だ。さすがに路上では発砲しないだろうとは思ったが、それが慰めになるとも思えない。かれらが殺人をしないのは単に人前だからだ。行く手の大通りの向こう側に街宣車を見つけ、遊貴は左のラブホテル街へと入っていった。Vシネマの撮影のような追跡劇は、真昼のただ中で続いている。
 
 「そう。あなたが、リンカーなのね」
 「燐花。伸ばす必要はないわ」
 「名前のことじゃないのよ。リンクするもの、つなぎ手、という意味」
 「何よそれ」
 「わたしは告知するもの、運び手、キャリアよ。名前は井澄ドミナ、喪服のドミナと呼ぶひともいるわ。よろしくね」
 「説明して」
 「これはカルトでもオカルトでもないわ。酷似してるけど、違う。問題はずっとマテリアルなの。状況にあなたがそもそも関わったのは五年前のことだわ。覚えてる? 中学生だったあなたは」
 途端に燐花の表情が強ばった。
 「電車はどうなったの?」
 喪服のドミナは人形めいた整った笑顔のまま、躊躇った。二つの選びたくない選択肢を前にしてうんざりしているロバのようなひかりが一瞬、瞳に宿る。
 「……ニュースを見なかった? 脱線したわ」
 どうする積もりだったのか、燐花は不意に立ち上がって、日除けのパラソルにもう少しでぶつかりそうになった。木製の椅子が急激な運動のせいで悲鳴を上げる。
 「知ってたの?」
 「…難しい質問だわ。知ってた、といえなくはないわね。ただわたしたちはあなた個人の為にここまで大げさな真似をするとは思ってなかった、それは本当。信じてくれなくても構わないけど」
 「わたしのせい?」
 「そうともいえるけれど、あまり実際的な態度ではないわね。責任問題はすべて終わってからゆっくり考えた方がいいのではないかしら」
 「ひとごとみたいな口調ね」
 「マテリアルな問題を裁くときはそうならざるを得ないわ。彼岸で救われる前に現世で自分たちを救わなくちゃはじまらないと思わない?」
 「……なんなのよ、いったい!」
 それほど大きな声ではなかったが、燐花はそう叫ぶと落ちるように椅子にまた座った。
 「続けるわ。時間的余裕もそんなにないの。中学生の時、あなたは誰にも云わなかったけれど殺人現場を目撃した。事件そのものはその後有名になったわ。その後、莫迦みたいにマスコミがもてはやすようになったサイコの犯罪の先駆けみたいな事件だったから、きっと誰でも知ってるわ。でもあなたが目撃者だった、ということは結局警察にもばれなかった。多分あなたがそれまでそんなに成績がよくなかったのに東京の大学を志望するようになったのはその反応ね。いったい何故? 逃避、それとも贖い? ともかく、それがあなたと状況との最初のリンクなの」
 「どういうこと? ……あいつが、犯人が何かしてるってこと?」
 「そう単純じゃないのよ、残念なことに。かれはまだ獄中でえんえん終わらない裁判につき合ってる筈。ますます恐怖と精神の持続的な壊れをたのしんでるんじゃないかしら。だからあんな変態を気に掛ける必要はないわ。コアにあるのはWHOではないの、HOWなのよ、ややこしいことに」
 「時間がないんじゃなかったの」
 「そうね。あなたがリンカーなのは、あの事件の目撃者だからというのは正確ではないわ。そうではなくて、あなたが、状況のなかで唯一、忘れない存在だから、なのよ」
 「どういうこと。わたしは親しく知ってるわけじゃないけど、遺族のひととか他にも忘れられないひとはたくさんいるはずよ、ただの目撃者のわたしがどうして」
 「忘れないというのはそういう意味じゃないわ。遺族の人はその場にいたわけじゃない。いい、問題なのはあの事件で子供が殺されるその状況の現実の経験を体内に持っている、ということよ」
 「だって、ほかにも目撃者はいたじゃない」
 「彼等は知られているし、経験を言葉にしたわ。経験は言葉にすることによって鎮魂されてしまうの。あなたは隠された、そして抑圧された記憶としてキーになってしまったのよ」
 「わたしをどうしようっていうの、だいたい誰が? 何だか全然具体的じゃないわ」
 「ここから一挙に話はマテリアルに変わるのよ。あなたを必要としているのは山陰地方に本拠地のある或るカルトなの。あなたは預言者と見なされているわ。就職先としては魅力的かもね。もっとも、あなたはきっと、『その話』を詳細に語って、かれらの為に聖書を書くことを要求されることは確実。多分、悪夢だと思うわ。それから、あなたをこの世から亡命させたがっているのが九州のナショナリスト団体、地下鉄の件はかれらの仕事よ、もともとそのカルトと仲が悪いのはそうなんだけど、多分理由は別にあるわ。あのときの被害者のひとりのお兄さんがそこの幹部になってるのよ。そのことがどういうふうに動機になってるか、わたしたちにもよく分からないんだけど。そして、もうひとつ、おともだちが、わたしたち」
 「……そんなにこにこされても、あなたたちはどうして信用できるの?」
 「ひどいわ。たすけてあげたじゃない。……そうね。わたしたちにもしてもらいたいことはあるわ。でもそれはそんなにあなたにとって負担じゃないと思うの。それに、あなたのことは、友達に頼まれてるのよ」
 「ともだち?」
 「あなたは、一時期、サイファというハンドルの同性のメル友と親しくしてたでしょう」
 「彼女、あなたたちの関係者なの?」
 「彼女の本名は伊沢諒子、わたしの祖母よ。先週、死んだわ。彼女は、もう長いこと半身不随で病室にずっといたの、そのせいでネットワークが普及するとまっさきに挑戦して、もともと理系の研究者でもあったから、すぐウィザードと呼ばれるようになった。ほかにすることもなかったんでしょうね。ついでにいっておくと、わたしたちは彼女がつくりあげたハッカーのネットワーク。祖母があなたと冗談で年齢をごまかして友人になってしばらくして、彼女はあなたにかかわる奇妙な状況に気がつき始めたの。彼女はストーキングの一種よね、と笑っていたけど。そこで彼女は状況に対してひとつの対抗策を考えたのよ」
 「どんな?」
 燐花はサイファとすでに三年越しの親友だった。それが、先月以来、ぱったり連絡が無くなっていたのだ。燐花は大量の情報に飽和して、当然感じるべき悲しみにいまだ追いつけないでいた。それに、彼女のイメージにとって、サイファはあくまでも同年代の、地方の、少し奥手の、そして知識のある、やや内気な女の子でしかなかったのだった。それで彼女はサイファに対して年長ぶることが多かった。
 喪服のドミナはまばゆいような笑みを含んだ。そして、
 「道の真ん中のウェディングケーキに、ナイフを入れるのよ」

 「ったく。愛国者も大変だな、この暑いのに」
 遊貴はゲヘナハウスという名のラヴホテルの一室でぼやいた。貧乏学生には大変な出費だ。ともかく快適なエアコンの室内でベッドにひとりあぐらを掻くと、携帯でどこかに電話しはじめた。
 
 「よう。リーパー、元気か?」
 「なんだ、遊貴か。全面的にオーケイさ。おまえは」
 「暑いのにおっさんに追っかけられ中。勘弁して欲しいよ」
 「悪いな、インドア班で。あとでなんか奢るよ」
 「メモリしたぜ。で、ネットワークでの動きはなんかあったか?」
 「サイコは動き無し。もっぱらオフラインで汗を掻いてるらしいな。ヒノマル諸君はどうやらハッカーを雇ったらしい。情報集めが組織的になってきた。こっちのことはほぼロックしてあるから大丈夫だが、リンカーとおまえの居場所はもしかすると携帯から割れるかも知れない。GPS機能は切ってあってもやりようがないわけじゃないからな」
 「この通信はじゃあきったほうがいいか」
 「俺相手の場合は平気さ。ロックしてある。ホテルのメモリから割り出されない限りそこはしばらく大丈夫だ。もっとも地道に足で怒鳴り込んで調べればそのうち分かるだろうよ」
 「いいニュースをありがとうよ。計画の方はオッケー?」
 「リンカーを待つばかりさ」
 「了解。じゃあおれはなんとか時間までに石を持ってくよ」
 「気をつけろよ。じゃあな」

 「さて、と、お仕事だ」
 携帯を切るとかれは洗面所に云って、ゆっくりと顔を丁寧に洗った。

 いま、二人は中央線に乗って甲府方面へと向かっている。基本的にはのどかな光景だった。 
 「今日中に大阪まで行って、そこでもうひとりと合流して、そこであなたの網膜パターンをアップするわ。それと同じタイミングで、あなたに電話した男の子、ユウキが石を東京タワーのある種のレーザー装置に取り付けるの。オフラインでわたしたちがやらなくちゃいけないことはそれだけ。それが終わって、もし全体がうまくいったらその必要もなくなるけど、失敗しても、とりあえずあなたが見つからない場所には逃がす予定よ」
 喪服のドミナは意外に食欲が旺盛で、 駅弁を食べながら箸も止めずにそれだけしゃべった。
 「いや。それは分かるんだけど、それをやると、どうなるの?」
 「うーんとねえ、テクニカルなことを説明すると長く成るんだけど、簡単に云うと、ウイルスとして或るソフトを氾濫させるの。そうするとね、すべてのコンピュータ同士がプロバイダを一切経由しないでネットワークするようになるのよ。つまりなんていったらいいのかしら、サーバーの機能を世界中の暇なコンピュータが交替で肩代わりしあうようになるのよ」
 「ええと、もうちょっと詳しく」
 「体感的には今までと変わらないんだけど、サーバは仮想的な存在になるのよ。で、その実体はちょうど物理的に接続してるコンピュータのうちで暇な部分が共同して代行するの」
 「つまり、……サーバがなくなるってことよね。そうするとどう変わるの?」
 「全部、サーバになるといってもいいんだけど、そういうこと。情報の道を遮る、サーバを分割して、ウェディングケーキにナイフを入れて、ネットワークの結婚を祝うのよ。そうするとね、とりあえず、私たちの都合からはじめると、私たちは逃げなくて良くなるわ」
 「どうしてよ。敵は政治団体と宗教団体なんでしょ」
 「それは簡単。仮想ネットを掌握したら攻撃しちゃうから」
 「……どういうこと?」
 「だから、あなたの網膜パターンがその仮想サーバの権限暗号なの。ルートっていって、いちばん偉いんだけど、そのためのログイン・キー。仮想サーバっていってもいろいろ出来たりするんだけど、それで三ヶ月間、あなたの網膜パターンと一緒に登録したパスワードを使えばやりたい放題」
 「どうして三ヶ月?」
 「ずっとはやりすぎでしょう。自衛の範囲を超えるわって祖母は云ってたみたい。それを過ぎると、ルートの概念そのものが溶けるの。ネットワークは多数決原理とはじめに組み込んでおいたルールをもとにして自律するんだって。人工知能というのとはちょっと違うんだけど、まあ管理者はデーモンになるわけ」
 「ちょっと待って。なんでわたしの網膜なのよ」
 列車の窓の外にはみわたすかぎりの畑が拡がっている。
 「だんだん、助けてくれるのはありがたいんだけど、勢いで余計なことにまで参加してるような気がしてきたわ」
 「正解、と云いたいところだけどそうもいかないのよ。祖母は、『三ヶ月のヘゲモニー』が、あなたの支持のもとに行使されることを欲したの」
 「だって、それこそわたしの網膜パターンだけわたしから強制的にとったりできるじゃない」
 「そうそう。眼球くりぬいたりね。……そんな顔しないでよ。さっきわたしは端折ってしゃべっちゃったからそう思うのは無理もないけど、そういうことはできないようになってるわ」
 「わたしの自由意志なんてどうやって確認するのよ」
 「あなたの自由意志のしるしは何処にあると思う?」
 「……そうか。難しいわね」
 「でしょ。わたしたちはこれを開発してる間、ウソホント問題と呼んでたわ。コードや記号に嘘のコードとか仮のコードとかは原理的にはないの。機能するコードと機能しないコードがあるだけだわ。言葉は全部、嘘だとも言えるし、全部、本当だともいえるわ。本気でしゃべってるサインを言葉に埋め込むことはできないのよ」
 「だったらなおさら何で大丈夫なのよ」
 「問題は、状況よ。状況。あなたがキーであることを知っているのはわたしたちだけだし、それが今後、知れる可能性もほとんどないわ。わたしたちには、三ヶ月のヘゲモニーを手に入れるように努力した方がメリットで、それには知っている人間は増やさない方がいい。わたしたちはこれでも結構プライド高いから、仲間に支配されるのも出し抜かれるのもごめんだわ。だからそういう監視は互いにしてる。ほかにもいろいろと関係が相互に入り組んでて、わたしたちはそれぞれあなたと平穏に同盟を組む理由があるのよ」
 「だまされてるような気がするわ」
 「じゃあ、単純化しましょ。あなたには他に選択肢はないのよ、了解?」
 「やっぱり悪の秘密結社じゃない」
 「そうよ」
 と、ちょうど、駅弁を売りに来た。マスカット入りらしい。おいしそう、と喪服のドミナが云った。

 囮なんて冴えない役目だよなあ。と実際、遊貴は考えていたが、そのくせ、かれがこの分担を引き受けたのは志願したのである。刺激が欲しかった、と単純化して云えばそうなるかもしれない。しかしむしろ、生きている感触が欲しいなんてあほらしい自分のなかの曖昧な渇望の正体を試験してやろう、という気分が強かった。生の強度なんてものはそのものとして求めたって得られるはずはないし、ましてそれが法に触れたらどうなどというのは、実に小市民的だ。しかし、そういう気分を気分的なまま保持していれば、結局それから逃れることはできないような気がした。実際にやってみれば怖くて二度とそんな愚劣なことは考えないようになるだろう、という気持ちが一方にはあり、他方には、それでも渇望がいちおう内部に存在するからには、その本当の意味が見えるかも知れない、とも思えたのだ。満たされぬものが本当に欲しているのは、実感や刺激などというものではないに違いない。しかし愚かな無意識がそうであると勘違いしているそのエックスはいったい何か。遊貴はそれが知りたくて仕方がなかった。
 ひとことでいって、かれは回復不能なものが自分に埋め込まれていることを知っていたが、どうしてもその名を言い当てることができずにいたのだ。
 ラヴホテルをチェックアウトしたとき、遊貴は日雇いのニッカポッカの格好に着替えていた。かれの役割は単純だが、けっこう大変だ。二つの団体にマークされ、主要なターゲットだと思わせること、燐花と合流しようとしている、と思わせること、ときには燐花をつれていると見せかけること、彼等の目的が、東京タワーにレーザー装置を設置して、二つの団体を告発する放送を行うことである、と思わせること、だった。すでにその為の基礎的な作業は済んでいた。彼はカルトの東京支部に財産として補完されていた大きなルビーを盗み出していた。〔これは金庫がオンライン管理だったので思ったより苦労しなかった〕そしてセキュリティを甘くした計画書めいたメールを彼らのリサーチャーの鼻先でやりとりした。そして、今日はその根回しを基礎にして、都内で大騒ぎすればいいわけだった。
 ホテル街で別のホテルの屋根に登り、しばらく様子を伺っていると、どうやらやはり片端から軍服擬きの部隊は調べて回っているらしい。そのまま、道をぼんやり歩いていれはばっちり見つかりそうだった。しかし逃げられる距離感で、しかも見つからなければいけない、というのは奇妙なセンスを要求されるものだ。それにそろそろ偽の燐花と合流するつもりもあった。さて、どうしようか。屋根に居並ぶ屋根を見晴るかして、遊貴はしばらく考えていた。
 それから携帯を取り出し、屋根の上に舳先に立つようにして、内心、これでアンテナ三つ立たなきゃ嘘だよな、と思いつつ、燐花役に電話を掛けた。実は、彼女はここから見える範囲にいる筈なのだ。
 「もしもし、燐花、状況はどう?」
 「完璧よ。あなたは?」
 「ぼちぼちだね、見えるように手を挙げてみてくれる?」
 「おーい」
 彼女の姿は一キロほどさきの雑居ビルの屋上に見えた。全身黄色のワンピースで、緊張感というものがない。
 ……ひとがせっかくお義理で変装してるのに。やりすぎだっての。キノのやつ。
 呟くと、かれはまた電話に戻った。
 「オッケー、みえるよ。じゃあ西武で合流。了解」
 「了解」
 そこで彼は屋根から降りて、駅をめがけて走り始めた。走るのは、慣れている。

 しばらく走ると黒みがかった軍服擬きの制服が追いかけてきたが、信号をいくつか越えたところで、目の前にひとりが立ちふさがった。半円形に退路を断とうとしてくる。
 「止まれ。いつまでも逃げ切れると思ってるのか」
 「思ってるよ、で、あんたは何ものだい」
 「**会支部長、石野だ。河瀬燐花は何処にいる」
 「なるほど、あんたがご執心の幹部というやつか。なんで彼女が気に入らないのさ」
 「必要だからだ。彼女の存在は国家の害になる。だから排除する」
 「はあ。なんであの子が国家の害なんだよ。おかしいんじゃねーか」
 「河瀬燐花はあの犯罪の共犯者だ。疑う余地はない。蔓延しようとする邪教が迎えようとしているのもそれが理由だろう。しかもおまえたちのような連中までがあらわれたではないか」
 ……本末転倒なやつ。
 「それだけが理由? 仮にそうだとしても悪いやつはいっぱいいるじゃねーか」
 「まずもとを正さなくてはならん。あの事件はこの現在の乱れのはじまりなのだ」
 「私怨にしか見えないな」
 そういうと彼は不意に逃げるのではなく包囲の真ん中、石野の真横を突っ切った。しゃべっていたせいで間抜けなことに一瞬だけ、反応が遅れた、その瞬間をついて、ちょうど真横に偉そうに腰に手を当ててやすめの姿勢で立っていた男の股の下をスライディングの要領で抜けた。そのまま、振り向かずに、すぐ近くのちょうど赤になろうとしていた信号をわたる。わたりきって振り向くと、車の往来をなんとか突っ切ろうとして、クラクションが鳴り響き、もたもたしている。
 彼は駅の西口に向かった。

 甲府を過ぎた頃、緊張感がない、ということがようやく彼女は気になりだしていた。脱線事故のことを一時的にであれ忘れることができていたのは、よいことだったのか、無責任なことだったのか分からなかった。さっきから喪服のドミナは、窓にかぶり付きで風景に夢中だ。
 「ねえ、大丈夫なの、こんな暢気で。追っ手は?」
 振り向くと、彼女はめんどくさそうに云った。
 「わたしたちを追ってるのは、けっこうな規模は持ってるけど、警察とか全国組織のやくざとか国家とか軍隊とかそれほどものすごい相手じゃないわ。国内に千や数百あるくらいの規模の団体よ。勿論、それでもつかまったりしたら十分悲惨な目にあえるくらいの相手ではあるわけで、だからね、たまたま見つかればもの凄く危険、でも見つかる確率はかなり低い、っていう微妙な綱渡りなの、この旅は。多分、目的地も、目的も、都内にいないということもばれていない筈よ。たとえばれていても、何処にいるかは、確実には、わかりっこないわ。だから、基本的にはこれはサスペンスでも悲劇でもないのよ。たとえ運の悪い偶然と不手際が重なって悲しい結果に終わったとしても、それはそれで、あまりにも間が抜けてるから、やっぱり喜劇だわ。だから、これでいいのよ。とりあえず、電車に乗ってる間はできることもないし」

 いつの間にか日が暮れていた。まだ八時前だが、すでにとっぷりと暮れている。
 名古屋はもう過ぎたらしい。そこで、急に喪服のドミナの携帯が鳴った。
 「こんばんは、ドミナ、リーパーだよ」
 「なあに、問題?」
 「残念ながらね。偶然なんだが、その車両につぎの駅で例の教団の幹部一人を含んだ十人前後の団体が乗る。今日の捜索を切り上げて関西支部に戻る途中だ。まずいことに、その幹部はリンカーの顔を写真で知っている。何とかきりぬけてくれ。彼等は奈良で降りる筈だ。それと、ユウキとキノはいまのところオッケーみたいだ。いざとなったら通報して警察を介入させる予定だけど、必要ないみたいだよ」
 「分かった。リーパー、徹夜ご苦労さん、幹部の特徴は?」
 「ああ、そうだね、簡単さ。帽子を被ってる。じゃあ、幸運を」
 「そうね」

 「さて、燐花、お待ちかねのサスペンスよ、がんばって」
 「ええっと、幹部ひとりに顔を見せなきゃいいのよね」
 「女二人、というのも疑わしいと云えば疑わしいわね。そこまで情報持ってるか分からないけど」
 「顔かくしてる?」
 「むしろあやしいわよ」
 「トイレに行ってようか」
 「ずっと?」

 そこで、二人は、考えた末、燐花にメイクをすることにした。なつかしの顔グロである。

 入ってきた団体は別に制服めいたものを着ていなかった。たんに年齢や容貌に統一のない集団だが、とりあえず若い男の割合はすこし高い。統一感は、全員がしている腕輪のようなものだけだ。幹部の女性だけが、フアンタジックなゲームの修道士のようなシルク製のカラフルな服を着ている。この時刻の車内はきわめて閑散としていて、潜水艦か銀河鉄道か地下鉄かという孤独感が迫る。窓は真っ黒で、一面のカオスの闇の中に、この明るい小箱がひとり浮かんでいるような感覚があった。おとなしく、とくに私語もないままに団体は車両の奥の席に固まった。
 緊張しながら、燐花とドミナの二人はババぬきをしていた。きづかれなかったらしく、十分ほど息を凝らしていたのだがようやく安心し始めた頃、燐花はトイレに行きたくなった。小声で聞くと、危険かもしれないけれど、仕方ない、というこたえだ。そこで、彼女は団体とは反対側の車両の連結部にあるトイレに入った。用を足して、出ようとすると、誰かがドアをノックした。
 「はい、いま出ます」
 しかし、相手は答えず、しばらくして、続けた。
 「河瀬様ですね」
 「……分かってたんですか」
 「ええ」
 「つれて行くんですか」
 わたし、今日は質問してばかりだわ。
 「……聞かせていただけませんか。どうして、名乗りを当時、上げなかったんです?」
 「それを聞いて、どうするの?」
 「教えでは、預言者は記憶を時差をもって語ることで世界の虚偽を明らかにすると云われています」
 「よく、意味が分からないけど、それを信じているんでしょう。だったらわたしは関係ないわ」
 「教えはあなたの動機については何も語っていません。わたしは知りたいのです」
 「どうして?」
 「教えはその後の世界の苦しみをあなたの沈黙に帰しています。わたしは何か語られないことがあったから世界は苦しんでいるという教えに真実を感じたのです。ですから、その理由をわたしは知りたいのです」
 「ご期待には添えないわ。わたしはわたしの運命しか左右してない」
 「それでもいいのです。……報復を恐れたのですか」
 燐花はその日々、もはや失われ、ただ再構成されるに過ぎないような時間の深淵をのぞきこむ思いだった。その問いは下らない問いなのだろうか。彼女にはそれすら分からなかった。
 「……それもあった、とは思う。でも何か、もっと、曖昧な動機が多分、あって。きっとわたしは出来事に介入したくなかったんだわ。いや、そうかしら、むしろ、記憶そのものが忌まわしくて言葉に変えたくなかったのかも。自分がその場にいたのに防げなかった、ということを想起したくなかったのかもしれない。分からないわよ。ずっと、考えないようにしてきたことだし」
 「そうですか」
 「とにかく……これだけは本当のことだわ、あれは私の問題で、きっとあなたの問題じゃない。分かってもらえるとは思わないけど、語られない何かが問題なら、それは誰でも自分の何かをもっているはずで、あなたの語られない言葉は、わたしのとはきっと違うわ」
 気配は消えていた。最後の言葉を彼女が聞いたどうかも定かではないまま、ともかく、ドアを開けて手を洗い、座席に戻った。団体も、そしてあの幹部も、なにごともないような様子でそのまま座っている。
 燐花は、幻だったのかも知れない、と思わずにはいられなかった。

 やがて奈良で団体は降りた。

 大阪駅に着いたのは十一時頃で、ほとんど時間の余裕はなかった。駅のホームには茶髪のロックにいちゃんという感じの痩せた長身の人物が待っていた。
 「いらっしゃい、準備は整ってるよ。そこのビジネスホテルに部屋を取ってある。回線も部屋代に含まれてる出張会社員向けの奴さ」
 フロントは三人でひとつの部屋というのに変な顔をしたが、それだけですませた。おそらくあとでにやにやしているか、性の乱れについて憤慨していることだろう。
 待っていた彼、ガーゴイルと呼ばれていたが、かれがしばらくノートPCと回線をがちゃがちゃやっていたかと思うと、十一時半過ぎに机の前に彼女を呼んだ。
 画面には羊皮紙のイメージが映っていて、その表面には、サインイン? とダイアログが出ている。
 「これが第一段階のウイルスの感染開始のログインなんだ。ここであなたの網膜パターンとパスワード登録、それから、本人確認の質問が出る。この質問はウィザード・サイファが登録したもので、あなたにしか答えられない、と云っていた。ついでにいっておくとこの部屋から登録する必要があったのはNTTにここの回線から物理的に侵入してるからなんだ。じゃあ、どうぞ」
 そういうと、椅子を引いて、彼女を座らせてくれた。
 網膜パターン登録はPCの横に接続してあるカメラのようなものをのぞきこむだけで苦労はしなかった。ついでパスワードを登録すると、羊皮紙のアニメーションに読めないがなにか由緒ありげな文字か記され、最後の確認ダイアログが出た。それはサイファ本人の声で音読された。はじめてきく声だったが、彼女の声でしかありえなかった。推測よりも前に、それは感じ取れた。
 「狐さん、あなたがもし燐花なら、わたしの願いは何?」
 燐花は思わず目をつぶった。感情が背反するような不思議な混沌でこみ上げてきたからだった。
 暗い室内には液晶の灯りだけが、壁を映写している。奇妙な表情で、二人の男女は後ろのベッドにこしかけ、魅入られたようにデスクを見つめていた。
 「勿論、覚えてるわ」
 燐花はダイアログに、ディズニーランドに行くことよ、と記入し、OKをクリックした。
 すると、画面は白熱し、間の抜けたリズムで、ちゃららん、と鐘が鳴った。

 画面がもとに戻ったとき、そこには登録終了。感染オペレーションはすでに作動しました。ログインしますか? と出ていた。

 それを見て、我に返ったのか、喪服のドミナは立ち上がると、携帯を取り出して、リーパーを呼び出した。

 「リーパー。真夜中の正午にウエディングベルは鳴ったわよ、ユウキたちのサポートと、この部屋に近づくやつがいたらそっちのケアもして、ガーゴイルもいまからログインするわ」
 「ああ。こっちも感知した。凄いな。ユウキとキノはちょうど東京タワーの下にいるが、闇に紛れて見つかっていない」
 「じゃあ、よろしく。明日、起きたら代わるわ」

 そこで燐花とドミナは疲れ切っていたので二人でひとつのベッドに倒れ込んだ。
 眠り姫たちは、ただ、夢も見ずにすぐ寝入ってしまった。

 ちょうどその時刻、遊貴とキノが芝公園を歩いていると、一瞬、がくん、と都内のすべての電気が落ちた。そして、次の瞬間にタワーのイルミネーションが不意に燦然と白くかがやいた。そして、そのひかりだけが闇の中のかがやきだった瞬間はすぐに終わり、イルミネーションは消え、電気は回復したが、二人には誰のいたずらかは明白だった。

 そこで、二人はともかく一晩の隠れ家を探して暗闇のなかに消えていった。
 夜の世界は、まるで何一つ古い世界と変わってはいないかのようだった。

 終わり。