For My Lost Baby







 花という言葉がすべての花々を包み込むかがやきであるように、ぼくはひとという言葉を意味あるものにできるだろうか。経験がひそやかに歌いそめる真夜中の一刹那を指し示すことが。

 「こたえはあるはずよ」

 愚かなぼくのレコードは壊れたループで、存在しないオルゴールが、豪華なワルツをいつまでもたえることのないリピートを聖別する。壊れたループがメモリーを浸食する特別製のウイルスで、記憶は精神を霧のたれ込めた奥地の沼のように甘く不確実。絶対と神性とをディズニー製の奇跡でくるんだセールスマンが貧弱な絶望のコピーを商うこの煉獄では、見られ測られずにいるものなどなにひとつない。答えはつねに存在しなくてただルールがあるだけだと学校の廃墟では内的なテロリストたちが敬虔にまなび、もはや檸檬だけでは爆弾をつくるには足りない。だから彼女がなぜそんな途方もないことを云うのかぼくにはまるで分からなかった。

 その瞬間までの人生はひとつの誤謬にすぎなかった。それから生は不確かな「経験」になった。実際のところ長続きのする何ものもそれまでしていなかったぼくが、その雑草の生い茂る廃工場の敷地に迷い込んだのは何が理由だったのだろうか。自転車で職場から帰る道すがらで、まだ開発のすすんでいない地元の場所の使い方はばかけでただっぴろく、ちょうど出来たばかりの国道から道脇にかなりはずれたところにあるその廃工場がぼくの目にとまったのは、焚き火の灯りが見えたからだった。

 予期したものが何であったにせよ、それは彼女ではなかった。暗闇のなかに浮かび上がる赤く黄色い焚き火に映し出されたのは何台も積み重ねられた廃車の山で、その金属製のオブジェの美しさは書き表しても信じてはもらえないだろう。腐食した表面には水滴が鍾乳洞のように宿り、それを乱反射させる焚き火のきらめきがなぜかおごそかな神殿めいた印象を与えていた。そしてぼくはその光景にあっけにとられて立ちつくし、息を呑んで、そして、一台の赤い地上にうち捨てられた車輪のはずされた車の助手席に、眠っている彼女を見つけたのだった。

 火の舌になでられた夜のなかで、彼女の横顔は完璧ななだらかさに飾られていた。それは眠ることにすっかり慣れて、もはやその本質にまで眠ることがなりおおせてしまったような、そうしたゆるやかさだった。火のはぜる音におどろかされて、ぼくはやっと、この焚き火は彼女が起こしたのではないのかも知れないと思い至った。

 あたりを見回して、しかし人影はまるでなく、ぼくははじめて、おそらくそれは賤しい感情だったような気がしてならないのだが、彼女の存在が不審だと気付いた。それを卑しさと感じるのは自己防衛の気分が先立っていたからに違いない。そのまま、信じられないことだが、ぼくは起こさないように立ち去ろうとした。本当の意味で見知らぬものに出会ったとき、ひとには二つの選択肢しかない。殺すか、愛するかだ。閉じられた眸に映るであろうものをぼくは恐れ、夜のただなかに亀裂のように侵入するであろう言葉というものの不確かで傷を招く性質を嫌った。

 逃げだそうとしたのだ。

 すると、大きな音がして、見ると、廃車の一つがゆっくりと傾いていたのか、不意に落ちて、美しかった屑鉄の山が崩れはじめ、ぼくはびっくりしてまだ消えていない焚き火の向こう側の車内の彼女を見た。だが彼女はそのもの凄い音でも起きようとはせず、ただ眠っていた。

 後ずさるようにたどたどしい足取りで近づいていくと、炎はちょうどぐちゃぐちゃに散乱した廃車の一つに燃え移ろうとしていた。いまとなっては何処に燃えるものが残っていたのか不思議でさえあるのだけれど、そのときは気にもとめなかった。彼女が眠っている車の上には一台の車が落ちて後部は大きく凹んでいて、見る影もなく破壊しつくされていたが、助手席は無事だった。恐る恐る、ぼくは壊れた車のボンネットをノックした。闇には黒煙があがっている。

 「かえるがね」
 「かえる?」
 「そう。かえる。かえるが池から出てきて云うの。おまえの望みは叶うって」
 「なに。夢のはなし?」
 「でも赤ちゃんは殺しちゃったから」

 身じろぎして目を覚ました彼女が目をみはってまず云ったのは、簡潔だが要点は押さえられた一言だった。つまり、こういったのだ。

 「だれ?」

 ……ぼくがかえるだったころには、世の中はもっと美しくて、ずっとさかさまで、もっとふわふわしていた。それはともかく、雨が真夜中に降り出し、真夜中に虹が架かり、真夜中が彩られたころには、奇矯なものすべてが哲学的な表情で瞑想する。更新されるのだ。

 つまりあなたはこういうんですね。かれがたびたび言及するかえるだったころというのは、少年期の入院時代を象徴的に意味しているんだ、と。そうなんですか?

 ぐわぐわぐわぐわぐわぐわわ。
 雨が降り出す。

 「望まれて生まれたと思ってきた?」
 「多分ね」
 「だったら何故望まれなくなるんだと思う?」
 「ばちが当たるんだよ」

 あまりにも多くを望みすぎる罪。

 再び、第二楽章、雨が降り出す。

 「名前は鷺村武、この近くで働いてる。あやしいものじゃない。もっとも……いまのあんたよりあやしいってことはありえないと思うけど。ヒッチハイクでもしてるのかい?」
 「何かした?」
 「身に覚えでも?」
 「ああ……そうね。ごめんなさい。そういえば、何、これ」
 「焚き火だよ、焚き火」
 徐に立ち上がると彼女は車の割れたフロントガラス越しに這い出して、盛んに燃えているあたりの廃物を見回し、
 「長居しないほうがいいみたい」
 と云った。

 「わたしは海を見に来たの。近くでしょ。途中でお金なくなっちゃって」
 「何で海なんか。別に面白いもんじゃないよ。このへんはビーチもないし」
 「浜で遊びたいんじゃなくて海を見られればそれでいいのよ」
 「見たことないの?」
 「一度だけあるわ。だから見に来たの」

 彼女は裕子と名乗り、それだけの情報を吐き出すと、あとはひたすら食事に専念した。郊外のファミレスで、客は殆どいない。自転車に二人乗りして、五百メートルほどいったところにちょうどこのレストランがあったのだ。窓の外の道は消防車が走ったり、漸く、騒がしくなってきていた。

 「ずっと不思議だったわ。白雪姫やいばら姫が、初対面の王子様を好きになる理由が。だってそうでしょ。知らないひとにいきなりキスされるのよ。気持ち悪いじゃない。何もしないで助けられるのを待ってるのだってうそっぽいし」
 「自立した女性の意見というやつ」
 「かもね。でもファンタジーだったらそれなりに共感させてほしいのよ。わたしずっと想像してきたんだから。目が覚めたら、目の前に男の人の顔があるって。悪夢だわ」
 「ぼくとしては王子の気だって知れないね。どんな性格の女かも分からないのに。もしかしたら魔法使いに眠らされたのだって自業自得かもしれないじゃないか。まるでお姫様がつくりだした夢みたいだ」
 「だったらいけない?」
 口を拭うと、彼女は不意に立ち上がり、
 「ありがとう。でももう帰るわ。じゃあね」
 「ちょっ、ちょっと待てよ。だってどうせまたあそこに行くくらいしか宛てないんだろう。どうすんのさ、これから」
 「やっぱり何かする気なんだ。関係ないでしょ」
 「違うよ。ただ急にぼくが気にくわなくなったというんじゃなかったら慌てる理由は何なのか、後学のために知りたいだけだって」
 そのとき、店の中に二人、男が入ってきた。それを見て取ると、彼女は急に椅子の下に潜り込んだ。入ってきた男はのっぽとちびで、どちらもけっこういい年だが、粗暴な気配を漂わせていることは見間違えようがない。店内を見回すように歩き回ると、壁際の席に座った。
 「なにもの?」
 「親戚よ、ご親戚」

 椅子に身を隠しながら店を出て、自転車を発進させると、もう遠くからでもすでに廃車の燃える火は確認できるほど大きくなっていた。

 「いい風ね。このまま海にいかない?」
 「親戚ってどういうことさ。家出?」
 「話すと長いのよ。海に行かないの?」
 「一回、うちに帰りたいんだけどな。長くてもいいよ」
 「相続よ。骨肉の争いってやつ。わたし長女なの。父が死んで、わたしが結婚したら相続できることになってて、だからうろうろしないようにしたいみたい」
 「面倒な話だな」
 「面倒な話よ」

 潮の香りが強くなってきた。
 「このへんからは歩きだ。二人乗りでは入れないよ。地面が舗装されてないし、暗い」
 何かの虫の鳴き声が五月蠅い。
 「そ。本当に人気ないのね」
 「このへんは墓地だから」
 「こわーい」
 「心のこもらない反応ありがとう。ついでに聞いていい?」
 「なに?」
 「海見てどうしたいのさ」
 「見るだけ」
 「湖とか、プールとかじゃだめなんだ」
 「不満だったらついてこなければいいのに」
 「下心があるんでね」
 「ふん」

 暗闇に沈む緑を踏みながら浜の方に田舎道を歩いていると、漸く波の音も聞こえてきた。背後は田圃がつづいていて、人家は殆どない。海はまだここからだと堤防に隠されて目には見えない。ただ息づかいだけが聞こえている状態だ。

 ひろびろとした海の気配はあまりにも老いた悪人の寝息に似ていた。

 ……夢や理想や信念をもっていた頃があった。そんな記憶がいまやぼくを悩まし、亡霊によって制約された日々が奪われた夜のように、幻影めいた断片へと知覚を分裂させていく。

 「砂浜に住むいきものどうやって暮らしてるのかしら。砂しかなさそうなのに」
 「どんなところだっていきものは生きるしかないさ」
 「あなたは明日からどうするの?」
 「今日までと一緒だよ。変わる理由が何処にある?」
 「わたしもそうかもね。海見たって別にどうなるものでもないし」
 「でも見に行くんだ」
 「それとこれとは別よ。見たいんだから見るんで、理由は後付け」

 彼岸からの風が吹く。

 「いばら姫が眠ることになったのは悪いことをしたからでしょう」
 「違うよ。魔女の呪い」
 「どうして呪われたの?」
 「招待状を彼女に出し忘れたのさ」
 「それだけ?」
 「そんなもんだろ」

 日が地平の彼方から射し始めていた。じゃりじゃりと足下から音がした。安直だと何かが反発していた。左手に暗闇のなかの墓石の林が見えていた。墓地と歩いている農道のあいだには溝が流れていて水の音は聞こえていなかった。かえるが鳴いていた。暗かった。角を曲がると、雑草が堤防と地面が交わる部分に蔓延っているのが見えた。波の気配が強まっていた。彼女の息づかいがはやくなった。
 濃密な静けさがざわざわと皮膚の上を走っていた。地面の上にならべられた小石たちが不意に拡大されて映った。遺跡のようだった。堤防の上の線と空の濃紺がまじわる線に奇妙な白と波立ちのノイズがまじったような気がした。彼女が振り返った。云うべきこともなく走り出した。堤防の上に二人で飛び乗った。
 広々とした全面的な青が荒れ狂っていた。純粋な静けさのイメージが襲いかかり、なにも動いていなかった。すべてが揺れ動き、水平線には吸い込むような青が結晶して、膨大な広さに無数のグラデーションが描かれ、まるで壮大な機織りのようだった。眸の中に眸が映りこんだ。

 朝になって彼女は追っ手の男たちと一緒に帰っていった。

 「また来るわ」

 再会はいつも出会いのように。