記憶の歌
記憶するということの不可思議さをいまぼくは思う!
そう、まずは大学受験の冬のこと。つらく寒い冬で、彼女は廊下のストーブのそばでぼくと一緒に九州大学文学部の前期試験を待っていた。彼女にはうすうす付き合いかけているだれかがあるとぼくは考えており、だいいちべつにほかの女の子にふられたばかりのぼくはそんなことを意識して考えていた訳ではないけれど、まるで同じ大学同じ学科の受験はクラスで彼女とぼくだけだったから、なんだか責任みたいなものを感じてしまい、どういうわけか、ひどくいとしく感じたものだ。惚れっぽいぼくではあるが、谷川俊太郎が記したように、ひとには万有引力が働くものだから、それをむりに色恋だと云うには及ばない。ただ寒さがとくにぼくの心をやさしくさせたと云うだけだ。なんだか世界のうちでただひとり、ぼくが彼女の身元保証人にでもなったような、−それに彼女は九大に受かったのだろうか−安全牌とは云えなかったのだ、そんな気分で小柄な彼女をぼくは見つめていた。なにより忘れてはならないのは、もう卒業式も済んでいて、よほどのことがなくてはぼくと彼女は二度と会うことのなかったということだ。じじつ以来ぼくらはあっていない。それは過ぎ行く季節への悼みからきたせつなさであったのかもしれない。異郷で受験の途にあって、ぼくはまるで場違いなことを考えていたのだ。けれどぼくらが口にしたのはベンキョの中身のことでしかなかった。あまりにつらく冷たい冬だった。
どうして箱崎の九大文学部のキャンパスは、あんなに寂れて雪の降らない冷たい冬のとめがたく小さな灯火のようなひとを押し流すかぜを吹くままにしているのだろう。
帰りにぼくは箱崎行きの切符で箱崎の改札に入ろうとして怒られた。問題なのは区間だけではなく、ベクトルもまた問題なのだと、地下鉄に関してはぼくはそのとき初めて知ったのだ。地下鉄にひとりで乗ったのもそれが初めてだった。
できうれば、ひどく肌寒いくせに雪の降らない、日本海から吹きっさらしの福岡の冬に、祝福をともなった太陽を贈ろう。そして、あのとおとい屋台たち−
え? 城野くん何云いよっとお? おかしかっちゃなか? 何を云っているのか、お願いだから教えてくれ。教えられるなにものかがあるのなら、おいだって知りたかとさ。なまあたたかい雨とともに梅雨は大村に訪れる。いや、別にそがん意味じゃ無かとけど。ただ。ただ? ただ、何だろう。云い掛けた言葉が見失われてしまうとき、きっと耀きをひとは見いだす。高校総体のとき、ぼくは隣の園芸高校の体育館にバレー・ボールの試合を見に行った。じつのところ、それは中学のとき好きだった子がそこに通っていたからにすぎない。マラソンのとき、一回も歩かずに完走できたのは、そのおぼろげな期待と、ばかばかしいプライドがあったからだ。だれがむかし好きだった子の通う高校のまえで醜態を好んでさらすことに耐えられるだろう。だが、おいは何ば云いよっとやろ。ひとつの高校に通う女子生徒の数を考慮するとき、ぼくは途方に暮れてしまうから、偶然をこそぼくはなつかしむ。ぼくにとって愛することは意地ででもあったような気がする。
バレーを観た帰り、ぼくは友人たちと一緒に坂を下っていた。夕闇が世界を滅亡のふちに浸し、高台の上の校舎は暗灰色に遠ざかっていた。いつも道化の役回りをこのむTが、泣いていた。涙はとどまることなど予定にないように流れていた。ぼくは事情も分からずあとをついて歩いていた。彼女は夜の深みからあふれ出す涙によって、過ぎ去って二度と帰らないものを嘆いているように見えた。手に触れることのできないぼくは罪障感を胸に突き付けられながら、自分自身の本質をあかしだてるべき刹那が顕現していることをしったけれど、何も云うことができなかった。自分がどれだけ不格好で場違いで愚かしげに見えるかを痛切に感じながら、ぼくはガラスの板で隔てられているようなものだった。
なぜひとは泣かなくてはならないのだろう。
何だって? どうしてもあの時間にぼくは向かわなくてはならないのだろうか。あの夕べ、あの廊下、あの薄闇、あのかぜの冷たさ、あの沈黙、あの不自然さ、あのバスケットのコミックス、あの世界史の授業、細部を思い出せないとしたら、ひどく悲しいことだけれど、傷はなおぼくを生かしめている。
当時ぼくらは滅亡に向かいつつあるものたちのように、どこか不思議な切迫感の中で受験までの時間を生きていた。それはいま触れているすべてのもの、風景、声、匂い、ひとびとへの再会の望みの低さに由来していたのだろう。だから、放課後の濃度はひどく魅惑的で、そのさなかでさえこの刹那はぜったいに二度と来ないのだということに、ぼくは愕然としていたのだ。たいしたことをしていたわけではなかったけれど。あまりにぼくはいまを惜しむあまり、ぼくはついさっきの出来事にさえ、ノスタルジアを感じていた。愚かだろうか。愚かには違いないが、ぼくはそのように生きていた。
歌が聞こえる。中学の音楽室から。ははなるだいちのふところに、われらひとのこのしあわせは、ある。大地を誉めよ、称えよ。なして、そがんおいばっかい目の敵にせんばとや。おいが何したって云うとや。大地は湖水に面してなお静かなのに、ぼくは悲しみのなかに沈むことを拒否しようとあがいていた。歌よ、ぼくの過去を照らせ。いまなおぼくが生きている失うことのできない日々を。音楽教師は傲慢な老人だった。不良は浪花節の信奉者で、ぼくは小学生のころからすでに深くはげしく仲間というものを嫌悪していた。ぼくは「なかま」に拒否されたから、ぼくも「なかま」を拒否してやったのだ。だけん、おいんごたっ奴は嫌われとったとさ。ぼくは屈するくらいなら耐えるべきだと信じていた。あがん奴らのいやがらせのおかげで、おいのごたっ間違っとらん奴の、登校拒否とか卑屈なあいつらの仲間に堕してしまったりしたら、おいの信じとっことの正しさまでなくなってしまうやっか。見逃してやるから見逃してくれという類いの互助的な友情まがいが、本当にうそいつわりなくぼくは小学五年生いらい憎んでやまないものなのだ。頼むからぼくを仲間にしないでくれ。
記憶は、情動すらもサントラのように伴っている。はげしい音楽が再生された後、残るのは……悲痛さ。ブザーがなったあとの、映画館のスクリーンの空白が、ただの空白ではないように。
結局、出来事はただひとつ。ひとつの神話を語ろう。そう、小学生のある日のことだ。時間は昼休みとしよう。ぼくは机に座っている。がき大将の一人がちかづいてくる。こう頼んでくる。金貸すけん、パン買ってきてくれん? ぼくは断る。それが、始まりだ。
本質的なのは自信の欠如である。力あるものに頼まれたことを為すことを、ただ友情の発露としてでなく、まるで屈したかのように感じてしまう、異常なプライドと劣等感と臆病さ。もし、怖くなかったのなら、そんなこと、屈したとは感じなかっただろう。
ぼくは自分自身を堕落から引き留めなくてはならなかった。
屈したと自分自身に対して思えてしまうことに対抗するには、自分自身の自由意志の存在に信頼するためには、ふたたび、自己の存在意義を認めることができるようになるためには、自分が蔑んでいる臆病な奴隷にならないためには、形として突っぱねるほかにぼくはすべを知らなかった。
罪について思い出す。あの日のことを。もはや寓意的なあの日の拒絶を。繰り返しぼくを苛む自らの罪過を。失われた友情を。かなしみは償われなくてはならない。だが何の為にさ。
友人がいた。喧嘩がつよかった。−なんたって彼は握力が八十もあったのだ−もう一人と三人で、ぼくらは小学生まではひどく仲がよかった。互いの家に行きあっていた。中学生になって、ある日のことだったと思う。ぼくは彼に守られている自分であることに気づいた。ぼくは対等であろうと欲した。しかし、体力と勇気の欠如は、ぼくに彼に対して対等に振る舞うことを不可能にさせた。ぼくは卑屈に振る舞う自分を嫌悪した。ぼくは彼に左右されている自分を嫌悪した。そして、恐怖した。我がまま勝手な話である。ある日、彼がぼくの家に遊びに行こうと誘いにやってきた。
ぼくは居留守を使った。
奇妙なかなしみと罪障感に襲われながら、必死で、なにものかに把まっているような心持ちで。
そしてぼくは彼を呼び捨てにしなくなった。
「悪」は多分、臆病さと、自己愛のはざまに潜む深みなのだ。
誰よりも拒まれることに敏感な彼であることをぼくは知っていたはずだったのに、まだぼくは彼に詫びを告げていない。
それもこれも自己憐憫であると云うことさえ、変形した感傷であるから、ふたたび、耳をすませ。闇の川辺を音もなく行く篝火の列、それは、流浪の民だ。なれしこきょうをはなたれて、ゆめにらくどもとめたり。いづこゆくかるろうのたみ、何処行くか流浪の民! 初恋ではない。彼女はたぶん、エキゾチズムの女神だったのだろう。彼女は、多分旅芸人の一座の女の子だったのだろう。ばからしいほど類型的な、離別の物語原型だ。そして男の子は旅芸人を追っかけて仲間入りにしようとして拒まれる。涙で終わりだ。たぶん男の子は女の子のことを理解していないお坊っちゃんなんだろうさ。サルトルにもそんな話があった気がする。だが人名なんてなんだっていい。ほんとにありふれた物語なのだから。だいいち、彼女は片親であるというほかに、とくに異質であったとは思わない。ただ、勝ち気で理想主義者で心優しかっただけだ。女の子相手に孤立しやすい、そうした学級委員長めいた「けなげな」(フェミニストにぶっとばされそうな表現だけれど)女の子を愛したからといって、ぼくがお坊っちゃんだったと云っていいだろうか。多分、そうだ。なにしろぼく彼女に対して話しかけることもできないくせに、ばかみたいな物語をいくつもでっちあげ、自分の書き始めていた幻想物語のヒロインにさえしたてていたのだから。前述のサーカスの女の子みたいな物語だってその一つにすぎない。しかし、彼女にはえらく迷惑であったことだろう。
我がドゥルシネーア! きみはもう、ときのかなただ。もし再び会うことがあれば、いまこそ、ただ静かに談笑できるだろうに。
それは時の為す幸いであるとともに、何者かを犠牲にしているのではないかという、喪失のかなしみを呼び覚ます。
書き始めていたのは、生来うっかりもののぼくにとって、生きるための不可欠な補助手段だったのだと思う。自分に自分よりうつくしくよきものを作る力があると信じられなければ、ひとかどのものになることができると信じられなければ、ぼくは堕落するか生きていないか、いや堕落しているだけだろう。死ぬ勇気などありはしない。そして、おかしなことに、書くことと愛することはぼくにとってひとつであった。ぼくはいつも、奇妙なラヴレターを書き続けているのだと、思うのだ。
星空は天のまことの姿である。冷たい地学室の屋上で、ぼくは断崖に危うく身をさらし、びくびくもので脅えていたのだった。昔も今も、ぼくはあらゆる意味で高所恐怖症なのである。その日を久しく溯る合宿にには彼女がいたのだが。いま、その不在の星空とともに、なつかしい高校時代の女友だちを想起する。あなたがたは三年ものあいだ、この利発な子供の面倒を見てくれた。それはありうる愛の最上の姿のひとつではないだろうか。まったく、彼女たちは百万の宝石にも値するとぼくは信じる。たとえ、そこにいくつもの悪徳や誤解が介在したとしても、彼女たちは見捨てることだけはしなかった。それは奇跡的なことで、いまだに信じられないでいるくらいである。
だからこそ、私は、絶句する代わりに、一つの物語を書き記す。
「戦争が終わって、数年が経った或る夜のこと、翡翠県の無可有市の市街のある高台へとつらなる道をゆく、一人の青年の姿があった。戦争の反動でか灯火はあかあかと家々に灯り、青年の行路を照らし出していた。青年はまったく梳かしていない黒い頭髪を持ち、行く手を憑かれたように見つめながら、疲労からくる喘ぎとともに着実に歩いていた。青年が歩くにつれて、星は瞬いた。やがて彼は一軒の不思議にも灯のない家のまえに止まり、飾り気のない白いドアを見つめた。鶏の声が聞こえた。青年が顔を上げると、山際には朱色のまばゆい朝焼けがにじみ始めていた。一日で最大の寒冷が足元から彼に忍び寄った。彼は右手を上げた。そして、叩くかというふうにドアに近づけて、すぐさま引っ込めた。それは引ったくるような動きだった。そしてまた、磁力に引っ張られるように上げ、叩き落とすように戻す。ふたたび鴇の声がした。
彼はドアを叩く。もう一度叩く。抑制をかなぐりすてて何度も、ついには音楽でも奏でているようにぶざまな騒音を音高く響かせる。だが反応はない。やがて耐え難い赤い光が町を沈ませる。無数の光の針が彼に食い込む。そして、ノックがやむ。
彼は待つ。もはやノックすることさえできずに待つ。
彼は気づかないが、後ろの小道を自転車にのって警官がやってくる。彼は近づくと、青年の肩を後ろから叩く。青年は驚いて身をのけぞらせる。信じがたいショックにいまだ復帰できずにいる彼に、警官は耐え難いほどやさしく云う。この家の主はもう引っ越したと。そして、あなたのような立派な青年が夜明けに無人の戸をおとなうものではない。行って、ほかにあなたの行くべき戸を探せと。
崩れ落ち、青年は顔を覆う。
夜が明け初めると、青年は再び途へと戻っていく。
街にあたたかな雨が降り始め、彼の足跡を押し流し始めた。」
いざ、お祭り騒ぎが再び始まる。時計はふたたび動き始めた。愚行も善行も、叡知も迷妄も煩悩もふたたび見いだされた。
無茶無謀のテーマが響き始める……
(了)