記憶と想像の水域に降りて
ポウ/オッペンハイマーのために
虹ができると、どこかで赤子が生まれるのよ、吐き捨てるように繭子がいった。子供が生まれるということをそんな口調でいうことが、繭子にはあまりにも似つかわしく、わたしは目がさめたような気分になった。まだ薄暗い森は続いていて、先をゆく彼女が踏みつけにしていくごとに枯葉が追いすがるように鳴いた。鳥の声はまだ聞こえないが、いや、もしかすると意識できない深みで、もうわたしはその声を聞いているのかもしれない、だからこそ、こんな不安のざわめきが感じ取られるのかもしれない。そう考えた途端、なぜか不安はひどく魅きつけられるなぞに変わっていく気がしていた。
空は頭上にまるで一本のかぼそい線のように黒くのぞけていて、両側から迫る木々とあいまって場違いなことに陰唇を思わせた。しっかりと踏みしめる足取りが反響をともないながら目の前をゆく。その黒い影はたしかにわたしにドッペルゲンガーの夢想をさそう。だが、繭子は気にもとめずに歩いていく。今、私たちは教授の命を受けて森の中にある核物理研究所に資料を受け取りにいく途中だ。いまだにドクターの資格をえられないわたしのことを繭子は内心軽蔑しているものと思われ、そのためひどくはじめはわたしにとってこの旅は苦痛だった。
急に繭子が振り返り、わたしを指差していった。
「降ると思う?」
その言葉に惹かれるように、わたしは雨の気配をまるで親しい人物の気配を感じるかのように感じ始めた。いままで感じていたすべてのざわめきや雑音、不安やおののきはただ水滴のイメージに支配され、一瞬こたえることもできないほどだったが、濡れた犬のような暖かさの幻覚を振り払い、わたしは空を見上げた。
「湿気がかなりあるし、気圧もひくい気がする。危ないんじゃないか」
「急ぎましょう」
「聴いていいか?」
「なに?」
「きみはさ、……女であることを嫌っているのか?」
「どうしてそう思うんです?」
「なんとなくさ」
「次、そんなつまらないことを聞いたら、殴るわ」
「……ほら」
「なんですか」
「雨だ」
雨に降られながら小走りに一本道をゆく。小豆が転がるような乾いた音がする。雨は最初は親しげな身振りのおしつけのようにべたべたとくっつき不快だったが、やがてザアザアと降り始めるにつれて清潔な白さを帯びていく。穢れは究極には純潔へと変貌するのだろうか、ばかげた感想をいだきながらぬかるんだ森の道を走っていく。繭子は急ぎながらもけっして足取りに乱れを見せず、その代わりに地面の泥のはねを服にいっぱいにあびて、ペンキ塗りの少年のようでもあり、またその模様はうつくしい装飾のようにもなっていた。絶え間ない雨の音は耳の底に沈殿していき、霧のようにもとより薄暗い道をなおさらあやふやに変えて、ただ一本道であるという信念だけがわたしと繭子とを歩ませていく。
薄笑いをしてまだ若い教授はまるで相手の無知を哀れむようなかおつきでこう口を切った。きみたちは戦時中、日本軍もまた原子爆弾を研究していたことをご存知かね……コーヒーの匂いがまるで晴れることのない憂鬱のしるしであるかのように甦る。そう、あのとき彼女はわたしと教授の顔を等分にながめながら、聞いてもいないという顔つきでシガレットを吸っていた。視線の先には同居している医学部の研究病棟が、そこにはたしか精神科の……超弦理論や大統一、量子力学と相対論の神秘的結婚、学部ではいつもまるで現代の錬金術師のような奇妙に壮大な観念がとびかっていたが、そのなかで教授はすべてをあざ笑うかのようにほかの誰にも理解できないような思弁的な理論を弄んでいた。何度も、そう、あの女たち、男たち、まるでやにの匂いをさせながら心配そうにあの教授に付いていて大丈夫なのかとほのめかし、ひきとめていたあの生暖かい顔たち……残念ながら成功はしなかったが、その研究の続きを行っているものがいる、といえばそれはまるでオカルトめいたはなしになってしまうが……どこまで本当かわからない口調で教授は言葉をつづけた。その話はそのままあいまいに逸脱していきすっかり話題がそれてしまったころに教授は唐突に、この研究所へいくようわたしたちに命じたのだった。だがそれがそれまでの話題とどう連絡しているのか、どんな資料をもらってくればいいのか、教授はのらりくらりとそうしたことについては決して明かそうとはしなかった。
「原子爆弾というのは時間へのアンチテーゼなんだ」
いつのまにか雨はやんでいたが、闇はいきおいを増していて、足元はすっかりぬかるんでいる。
「核融合や核分裂と時間の矢に何か関係があるとでもいいたいの?」
「いや、そんなエセ科学めいたことじゃない。投下された原子爆弾は時間の意味を壊し、歴史というもののまんなかに、人間の理解の及ばない空白をつくった。この空白があるかぎり、時間がなめらかに流れるなんてのはうそだということになったんだよ」
「大量破壊も、虐殺も何度も繰り返されたわ」
「そうさ、だが、一瞬のうちに、前触れなしに、生活の全体が抹消されたことはなかった。いいかい、重要なのはこういう事なんだ。何の意味もなく、意味を奪われ、ただ、生活が消されたんだ」
「意味がなければ死は歴史にならないということ?」
「そうだ。あの死者たちにとって、あの死は、ただの空白、中断で、何の意味もないんだ。苦痛に満ちていて、残虐であるということは、むしろその無意味の絶えがたさを増幅するものでしかない」
「まるで、戦場での死は比較的すばらしいものだとでもいいたげね」
「分からない。だが、歴史が今でも、引き裂かれたままなのは明らかだと思うんだ」
薄暗いせいで繭子の表情を見ることができない。
記憶は罪に似ているのかも知れない、ふっとばかげたことを、思った。
やがて道が二つに分かれている場所にたどり着いた。森はいまなお静かでもはやたがいの影さえさだかではない。しかし、どちらの道のむこうにも明かりを見出すことができず、そして本来一本道のはずの道が交差していることに途方にくれ、そこで立ち止まりわたしと繭子は話をはじめた。
「どうしてわたしがネズミが嫌いか知ってる?」
「か弱いから?」
「違う。わたし、か弱いものは好きよ。ネズミはあまりに裸だから」
「あの剥き出しの恐怖が不快だと?」
「ネズミをみていると、ネズミの狭い世界へ閉じ込められるような気がするのよ」
「ぼくらだってたいしてあいつらと変わってるわけじゃないじゃないか」
「そういう一般論もきらいだわ」
フクロウが鳴いた。
「どちらに進む?」
「右へ」
「どうして?」
「左でなければならない?」
「いや」
「森の中でどちらに行こうかと合理的に決めようなんて馬鹿げてるわ」
交差路は左は小高いほうへ上っていくかのようで、道はどちらかというとしかし広がっていく。木々はすこしずつまばらになっていて、暗い中でもどちらかというと有望そうにみえた。右手はすこしづつ傾斜しておりていく方角で、道はますます獣道のようになっていき、木々は威圧的にそびえ、なぜか道のまわりには上のほうから太古に落下してきたのか巨石がごろんごろんと落ちている。ひとつひとつの石の上には、何か精霊のようなものが座っているのではないかという感覚がわたしをおそう。繭子は歩きだそうとして振り返り、
「そうだとして、どうすれば時間を癒せるのかしらね」
「思弁はきらいだったんじゃないか」
「失われたものが刻まれているのは歴史だけじゃないわ、個人の記憶だってそうよ」
「分かるもんか、ぼくだって盲目な連中のひとりだよ、歴史や記憶の空白についてはさ」
「違うわ、あなたは悲しげな居直りを覚えてずるくなっただけじゃない」
道なりに降りていくと、不意に道が川によって分断され小さな丸木が渡されている場所に出た。それまで気配も感じていなかったのに突然あらわれたその清流のうえに、ひとまたぎより少しひろいだけの幅を丸木が渡している。夜闇の中でなぜかきらきらと水の流れはきらめき、水ではなくなにか別の物質のようだ。たえまない流れが、足下から毛穴へとざわめきを運んで落ち着かなくさせる。
「あ」
繭子がいった。見ると、水を上流から、小さな人形が流されてきている。その人形は手のひらにのるほどの人形で、男か女か遠くからはなんとも判断が付かない。溺れているかのようでもあったが、同時に水に現れてここちよげでもあった。水は夜そのものが流れているという印象をともないながら、たえまなく波を作っては割れ、壊れていく。まるで無限の数のガラスが壊れていくようだ、と聞きながら、人形が見えなくなるまで追っていた。
「上流に研究所があるはずだわ」
「道もないのに、泳いでいくってのかい?」
「まるであなたは到着したくないみたいね」
「迷ったのは、ぼくのせいじゃない、森がそういうところだったからさ」
「これは審判じゃないのよ」
「他の条件が同じなら、法則は繰り返される、それが科学だろう?」
「繰り返しにはあきあきしてるから、急いでるんじゃない」
「どのみち、川沿いに登るのなら道のないところを行くことになるんだ」
「無理だっていうの?」
「どうしてもというのなら、その通りにするさ」
「最低ね」
「見てのとおりさ」
繭子は川沿いに急坂を登り始めた。雨が降ったばかりだから、泥だらけになってなかなか進むことが出来ない。その影が水面に映る。うしろで支えながら、この状況はどこか滑稽なはずだ、とわたしは考えたが、どうしても実感はまるで滑稽ではなく、もうすこしで哀しみが全身を満たしてしまいそうだった。どこか、別の世界でこんなことがすでに一度あり、そしてそのときもこんなふうに孤独だった、という気がした。
(一九四五年七月、ロス・アラモス研究所内、トリニティ・サイト。火焔、光、狂風、雲の白さ、瞬時の静寂。)
繭子とわたしが互いの存在を知るに至ったのは数年前彼女がまだ(いまでは到底信じられないことだが)歌うことを続けていた縁からだった。声楽を諦めきれないでいた彼女は最後まで工学科を受けるか音楽科を受けるか迷ったらしかった。出会ったばかりの彼女は、歌うことを、空間がわたしを引き裂く、と表現した。黒いワンピースで大学の校舎の屋上に練習にきた彼女に、ちょうどいつも同じ場所で本を読む習慣をもっていたわたしが声を掛けたのがはじまりだった。
たしかに彼女の肩には鳥たちが集まっていたと記憶は言う。理性はそんなはずはないと。
「さっき、地元の人が、この森には千年桜があるといってたわ」
「どっちにしたって季節はずれじゃないか」
「そうね」
「……花は悲しいのだと思っていたのよ」
「どうして?」
「離れて死んでいくのだから」
「だからって記憶されるから、種子を育むから悲しくないなんていわないわ」
「じゃあ、なにが思い違えだったんだ?」
「花は悲しいのじゃなくて嬉しいのでもなく、笑っているの、まるで狂ったみたいに」
「それは到底しあわせのイメージじゃないな」
「知った事じゃないわ」
登り切って、一段うえを横切って走っていて道へたどり着いたのはかなり経ってからだった。二人とも泥だらけになって口を利く気力もなくなっていた。前述の会話も、ほんとうは、かすれるような、スローモーションで、沈黙がちに荒い息を挟まれて話されたのだ、本当は。水の気配はすっかり引いていた。なんだかいやになった気分で、座り込んでいた。繭子は空をみあげ、その亀裂からあいもかわらずのぞける深淵を空洞のような表情でながめていた。どれぐらい経ってからか、第三の人影の気配を感じて、わたしは身を起こした。上体をおこしてあたりを見回すが、さっき感じた気配の主は見つからない。気になって、もう一度あたりを見回した。すると、岩肌が露出しているあたりに、靴がひとそろい脱ぎ捨ててあるのが見つかった。近寄ってみると、まだ真新しい革靴で、雨に濡れて鮮やかに輝いている。そのさまを見るともなしに見ていたらしい繭子はわたしの背後から近づいてきて、急にその靴を横から取り上げた。
「見覚えがあるわ」
「なんでも知ってるんだな」
「弟のよ」
「喬くん、いま、中東の筈じゃないか」
「その筈だけど」
「見間違えたって、いまなら言ってもまだ恥じゃないぜ」
繭子は返事をしない。
「それは、困ったな」
私たちは教師に余計な課題を出された生徒のような気分になった。繭子の弟の喬はNGOに参加していて、いまは中東でなにか平和維持関係のボランティアをしているはずだった。資産家の彼女の家では、かれのような人物はめずらしくはなく、いってみれば種族の罪滅ぼしとしていけにえに捧げられたようなものだ、という気がわたしはいつもしていた。無意識にであれ、なにも氏族の罪をひとりで感じ取る必要などないはずだろうに。もっともわたしが彼に感じるやましさそのものも、何か傲慢なものを孕んでいるようにも思えていた。
喬はいつかこういっていた。
「違いますよ。ぼくは、きっと悪意から、ボランティアをしているんです。家への悪意じゃないですよ。人間への、悪意です。どういうわけかぼくは、人間の醜さや悪と離れては生きていけなくなったらしいんですよ」
途方に暮れてうえを見上げると木々の葉の亀裂から黄色く輝く月がのぞけていた。正円の月は距離感を狂わせる曖昧さを帯びていたが、しかしそれは月がこうこうと明晰にかがやいているということと両立していた。
「とりあえず、行くか」
「もう、引き返す選択はないみたいね」
「行くも戻るも散々というわけだ。仕方がない」
「着いたら、まずシャワーを浴びるわ」
「ぼくは熱いコーヒーだな」
繭子はふっと軽蔑したような、あるいはただ見通すようにのぞき込むような、瞳孔のややひらいた、モノをみるような目つきで、そのときわたしをしばらく凝視した。まるでその瞳の向こう側にはなんの精神も存在せず、美しい不可解なメカニズムがわたしを値踏みしている、というようなそれは、奇妙に魅惑的な経験だった。
そう。わたしは古代の神か、猫や狐のようななにか化生の存在を前にしているという拭いがたい感覚に威圧されていた。
「そうね」
おそろしくそれは上の空な口調で、下手をすれば聞き逃しかねない小声で言われたので、わたしはふっと聞き返しそうになった。歩き始めると、だんだんと足の裏に違和感を感じ始め、最初はそれがなんだか分からなかった。登っていたはずの道だったが、だんだんとそれがゆっくりと下へと傾斜しはじめていることに気が付いたときには、もうかなりの距離を歩いていた。立ち止まって、どうするか繭子に尋ねようとすると、さっさとそのわたしを彼女は追い抜いてしまった。黙々と白衣をひらめかせながら彼女は歩いていく。だんだんと離されながら、さきをゆく彼女をみつめていると、しばらくいったところで彼女が急に立ち止まったのがみえた。
追いつくと、その理由が分かったが、それは困惑をますだけだった。そこには大きな洞穴が山肌にぽっかりとあいていて、吸い込むように誘っていたのだった。繭子はそのなかをのぞき込もうともせず、入り口のところの地面に散らばっている石ころを眺めていた。なかはかなり深く、真っ暗で、耳を澄ましても何の音もしない。
「気味悪いな。黄泉への穴だ」
「入ってみない?」
「何を言ってるんだ? さっきからおかしいぜ」
「怖いものを見ると、試したくなるのよ」
「そんな余裕はないよ。遭難したらどうするんだ」
「このなかのほうが危ないなんて限らないじゃない」
「ほんと、無茶いうな」
「……冗談よ」
立ち去ろうと、つよく一歩踏み出したところで、そのときまで気が付かなかったのだが、洞穴から地下水がにじみ出ていたらしく、わたしは足を滑らせて、重心を崩してしまった。なにかに取りすがろうとして、世界が転がっていく視界の中に繭子のすがたも一瞬切り取られていたが、しかしそれもつかのまで、そのまま道からわきの斜面へと足を踏み外し、わたしの体は横に鉛筆がころげるように暗黒の下方へと滑り落ちていった。ずざざと枝や岩に足腰を打ちながら忽ちのうちに意識が暗転し、最後に残ったのは奇妙なことにそれまではすこしも存在していなかったフクロウの鳴き声だった。
最初に疼痛がそれ自身として空間に散らばっていて、そのネットワークとして自分がいるような、不思議な痛みと浮遊感があった。だんだんと意識が戻って行くにつれて、自分がもはや戸外ではなくてベッドに寝かされていることに気が付いた。
「ここは?」
ベッドの脇に、中年の肥満した男が立っていて、わたしを見下ろしていた。
「ここが研究所だ。連絡はもらってる。遅いから心配していたんだ」
努力して、上体をおこすと、そこはかなり古い洋館の中の一室で、普段はあまりつかっていない部屋のようだった。
「あ、繭子は、どうしました?」
「彼女なら、地下を見学してるよ」
「地下に何があるんですか?」
「ささやかな実験室さ」
わたしは、時という時が凍結された地下の洞窟の湖におりていく彼女の姿をおもいえがいた。
そこには青ざめた神殿のような、あるいは心臓のような、機械の迷宮が浮かんでおり、放射線の悪夢が幻想をつくっている。わたしが思い描いていたのは、地下核実験のあとにひろがる、地下の巨大で高温の空洞のイメージだった。
ドアの向こうで、硬い石の階段を登ってくる足音がした。どこかで、陰気な、時を告げる、カラスの何故か懐かしい鳴き声がしたような気がした。醒めようとする夢の甘さが、霧のようにわたしを包むのだと思えてならなかった。
ドアが開くのを待ち続けた。