継ぎ接ぎの場所で

 焼け跡の塵芥というのはどうしたって綺麗なものじゃない。黒く洗われた炭は折れた骨のようにあちこちから突き出され、たしかに一種の美といえないこともないが、重力に屈服した卑屈さが漂っていて、悲惨だ。まして、ぼくはここがどんなふうだったか知っている。どこからか土が積もってきてかつてあった椅子や内装や本棚を埋めているようにみえたが、よくみればその土はこれも粉々になった炭と燃えさしだった。ガラスの破片が、不意にひかった。不思議なことに焼け跡のまわりに建っていた雑居ビルはすこしも焼けていない。だからこの狭いひと区画は、破産やなにかで建物がひとつ壊された、というのとまるで区別がつかない。寒々しいこのこじんまりとした区域は、感傷をゆるすほどまわりから隔絶していなかった。歩道沿いに建っていたかれの店はこうして、いともたやすく塵芥のやまに変わったが、ここに堆積しているはずのものを、かつてぼくとかれと、そして幾人かのひとびとがどれだけ丁重に扱ったかということは、ほかの誰にも信じがたいことだと見えた。

 寒い、雨の降りそうな夕暮れだったが、ぼくは焼け跡に踏み込んでしばらくぼんやりとしていた。足下にかすかにのぞいたタイルの破片がおそらくドアの位置を示しているのだろう。黒い、いやに湿った堆積のうえに翠色のきれはしがのぞけていて、その色合いに見覚えがあったので中腰になり、慎重に引っぱり出してみると、それはひどく汚れたノートだった。ページはくっついていて、なかみもどうせ読めないに決まっていた。

 「きったねえ」

 汚穢のような胸のむかつく臭いがした。ノートからしていたのか、ぼくからしていたのか区別が付かなかった。耐えきれず、躯を半分に折って激しくせき込んだが、そうしたくなかったにもかかわらず、ぼくは嘔いてしまった。とめどなく吐瀉物はふきだし、胃の中がからになってもぼくの躯は空咳をして胃液を吐こうとしていた。このとき、特徴的だったのは、通行人はみな、ぼくをこの焼け跡の一部とみなし、何をしようが放っておいたことだった。

 ……天上大風。

 くぐもった声で、托鉢僧がいうのが聞こえたとそのときぼくは信じたが、自信はない。気がついたときには僧のすがたはなかったから、それはその男が何ものかを気配で判断したにすぎなかった。吐いたときのあの酸っぱい、腐食するような臭いが漂っていて、ひたすら水とタオルが欲しかった。寒さが、体力をつかったせいかよけいこたえていた。はいているあいだ、ぼくは自分が何かを必死でさがし、いのっていたような気がしたが、しかし考えてみればそれはおきまりの物事にはなしや意味をかぶせてしまう悪癖の発露でしかないようにみえた。

 最初、そのかわいた音がなんだか分からず、銃弾かビー玉が落ちたおとかとおもっていたが、目を一度つぶって気を取り直し、背後をふりむくと、傘をさして、遊佐がたっていた。雨がすぐ本格的に降り出した。

 「こういうとこを……」

 見られたくなかった、と続けるつもりだった。遊佐はブーツで、終わりまで聞きもせず足下の泥濘や黄色い吐瀉物も顧慮することなく焼け跡に踏み込んできて、ぼくのよこを通り過ぎ、すこし苛立ったような乱暴なしぐさでふりむかずにぼくに傘をわたした。傘を貸したというより、邪魔なものを持たせたという方が印象として近かった。肋のように天に向けて二本だけ折れながらも残っている柱を、怒った顔つきでみつめると、彼女はずぶ濡れの儘それを蹴り倒した。凄い音がした。折れたのだ。ぶつぶつ何か云っているのは、はっきり聞き取れなかったが、なによ、とか、痛い、とか、もう、とか、つめたい、とか、くそ、とか、邪魔、とか断片的な言葉で、たいした意味があるようには思えなかった。隣にあった誰かが後から捨てたらしい段ボール箱をつぎに踏みつぶし、ものの数分でまだ残骸の形態をのこしていたものは全てなくなってしまった。しばらくそんな風にして、焼け跡と格闘してから、気が済んだのか遊佐は振り向いた。

 いやに、真面目な顔つきで破壊行為を欲しいままにしていたとはとても思えなかった。

 「惨めなもの、嫌いだ、あたし」

 「怖いよ、きみはさ」

 そういうと、ぼくはキスをされた。すごい臭いだったはずだが。どんなキスだったか、あなたがたに教える筋合いはない。キスをしおえると、彼女はぼくをだきしめたまま、肩越しに、待っていたしらせをもたらした。声は慄えていたが。

 「爆弾、破裂しなかったわ」

 鵜飼の店がすでにかたむきはじめたころに、ぼくと遊佐は常連になったのだった。日が落ちてから店をあけるなんて非常識な真似を鵜飼以外のいったい誰が思い付いただろう。ファミリー・レストランでもなく、コーヒーしかメニューがないくせに、かれはけっして昼間、店をあけようとしなかった。傾いたのも、当然だった。鵜飼はそのくせ道楽で店をやっていたわけではなかった。借金が、そのあかしだったが、まるで、それは鵜飼のつくる雰囲気のなかでは、楽しいゲームのようにさえおもえた。たしかに、それは不謹慎で、気持ち悪いことでさえあった。鵜飼は詐欺師のように見えることが何度もあったし、ぼくも遊佐も、きっと、ぎりぎりの際では、知らん顔をするつもりでいたのだろうとおもう。だから、あのたそがれた店のことをぼくは軽率にも、愛した。報いをうけるとも知らずに。

 「あんたが死んだらぼく、笑うなあ」

 「何でや。ひどいな」

 ぼくがきくと鵜飼はあの眠そうな、すぐにでも自殺しそうな、不思議に穏やかな口調でこたえる。

 「だって、ほかにどうしようもないからなあ」

 考えてみれば、遊佐はこのぼくと鵜飼の会話の静かさが好きではなかったようだった。

 ……これ。

 遊佐は躯をはなすとかたく握った手のひらをしめした。手は汚れていた。さっきなにか拾ったらしい。手をひらくと、それはまるい、すべすべした、青い石だった。鵜飼がある日、道でひろったのだといって、笑ってしめした、石だった。かれはこの石をきれいに磨いてペーパー・ウェイトにつかっていた。ぼくは黙ってうけとってポケットに入れた。

 ……もう、いいよな。

 鵜飼の店が燃えた理由をぼくらはしらなかったし、かれがいまどこにいるのかも分からない。でも、もう、終わりだ。爆弾が破裂していたら、街は夢のような優しさのなかで、何かに変わっていただろう。でも、それはいま、愚かな幻だ。

 「きみを、太陽の場所へつれていくよ」

 そしてぼくたちはこの邦をはなれるために空港へと向かう。