Merry-go-round to the Rainbow

 

 絶望などという言葉のひびきの大げささにもはやどれだけ飽き飽きしていた頃だったろうか。
 なし崩しの緩慢な自殺に似た生活の中にあいつがふらりとやってきて、おれを壊滅的なぐちゃぐちゃに誘い込んだのは、迷惑とはいわないまでも、やりきれない運命というやつだった。あいつはおれにとって運命となり、運命はおれにとって死の象徴となったようだった。象徴ということについて、このごろ、おれはよく考える。言葉がいちど死ぬということ、そして太陽に似た苛烈な炉の中でうまれかわり、どこか曖昧な謎に変わるということを、おれは飽きることなく考えずにはいられないのだ。
 だが、あいつにいわせれば、それはおれ好みの遊戯にすぎないのだという。いま、あいつが起きるまでの時間や、ひとり、たとえば廃車のなかで眠るまえにおれが書くこのしわくちゃのノートでさえ、あいつの興味を引くことはない。男という死を定められた不毛の存在が、こんな文字を連ねることでなにかを記録し、冷凍させずにはいられないということは、あいつには理解できないのだ。おれ自身にとって忘れることの出来ないのは、こんなばかげたことをはじめたのが、あいつと出会ってからのことだということだ。おれはあいつの圧倒的な存在に対して、孤独の部屋を確保せずにはいられない衝動におそわれたのかもしれない。
 まったく、おれはあいつと出会って、絶望という言葉に再び出会ったようなものだったのだ。
 はじめて強盗を働いたときのことはもう覚えていないが、奪うことなしには生きることができないということを悟らせられたとき、おれはきっとその何かを激しく憎まずにはいられなかった。おれはいまなおその憎しみを感じている。この内部の通路は、いまなおどこかへ開いている。さらされた皮膚は、決して衣服に覆われることはない。
 渇き切った大量の砂塵が対岸から怖ろしい速度で吹き寄せてきていた。怒り狂った蜂の群を思わせた。堤防の向こうには、想像されるような海は消え去っていた。延々と続く砂漠のなだらかな丘陵は、対岸をこえて視界のすみにまで目眩のするようなひろさで延びひろがっていた。防波堤を、砂漠を右手に見て歩いているとおれの視界にあいつ、もはや消え去った時代の幻影のように、実用的とはとてもいえないハイヒールや、テンガロン・ハットといった、真っ赤で攻撃的な、そしてそれゆえに避けられない浸食のために傷み掠れた衣服で「武装」した女があらわれたのだった。あいつはだらしなく左手に銃をぶらさげ、だらだらと意図もあいまいなままに近づいてくるおれを気にする様子もなく、堤防にこしかけ、ひたすらに空を見つめていた。それに気を取られ、おれはその視線を追うと、そこには何もなく、ただ、灰色の空に、灰色の雲がにぶく輝いているに過ぎなかった。うつくしい女だった。うつくしい女は珍しかった。いや、美しさをこれほどあからさまに磨き上げ。誇示する女はまれだった。色情狂でさえ、レイプには破壊だけしか期待できない。おれは、銃を持った左手をゆっくりとあげ、水平よりたかく、あいつへとねらいを付けた。女は、振り返ると、おれとおなじように鈍く、ゆるやかで、だらしなく、そしてどこか激情的な仕草で太ももにつるしていた銃を抜いて、おれに向けた。間違いのない狙いがつけられ、幾何学的な平行線がうまれていた。静止状態は、数学的な均衡とさえ見えた。
 「海が聞こえない?」
 聞こえるはずのない波の音の代わりに、ゆっくりと崩れていくような、砂の流れる音が耳を外側からさわっていく。あらゆる関節やすきまへと砂は入り込み、円滑さをぶちこわす。おれは撃鉄をあげ、安全装置をはずした。だが、このとき弾は残っていたのだったろうか。
 「海なんて、もう何処にもない。おまえは狂いかけてるのさ」
 あいつは狙いをつけたまま、おれがいったことを考えているようだった。そのときには急激に晴れ間が覗ききらきらと、コンクリートの突堤を覆っていた無数のガラスや石ころやプラスティックの残骸が輝きわたった。

 結局、来てしまった。有子の足下を死んだ蟹を孕んだ波が往来していた。赤錆びた雨はまだ降っていた。頬を洗う赤い雨の分子には気象局の重ねて警告しつづけた強酸性がひそめられている筈だったが、有子が感じていたのは鈍い悔恨のために泡立つ肌の痒みだけでしかなかった。沖合には船の残骸が浮かんではおよそ波にのまれようとしていた。
 少女らしい肌のはりあいで、彼女の髪の毛の豊かさも水に濡れてまた思いでの中からぬけだしてくるかのようだった。午後は終わろうとしていたがちいさく白けた空洞のような日の高さはまだ波に隠れていなかった。だが、有子には夕日が落ちることはないだろうと信じられた。道中に出会った人間たちのうちで彼女の病を見抜いたのはひとりだけだった。その蛙に似た萎びた老人は有子をいちべつするとピカと言い捨てて大仰に彼女からとびすさった。だが雨のせいで内臓のようになめらかになった路に足をすべらせ、老人はゆっくりとあおむけに倒れた。
 きみのなかにはやむことのない未来への意志がある。あのひとはそういって。けれど未来という言葉を枯渇させたのはあたしの渇望のはげしさ。惨めさに愚かさをこめてあたしは海のなかに透明なあなたの残骸をさがそうとする。それなのにうみのなかにあるのはただ絶望的な、絶望的な枯渇のしるしだけ。有子が思い出すのは溶融をはじめる直前のかれのうめき声だけだった。
 「どうしてわたしではないの?」
 問いが風化していく速度は夢よりもはやく、そのくせ引き延ばされた皮膚のように忘れ去るには痛みが伴う。おとこの裏切りを彼女が知ったのは木々に花咲くこの沿岸だった。そのころには凄惨な生のいとなみで噎せ返るような密林からの出口だったこの場所で、有子はおとこが海辺をみつめるのを見た。その眼差しのなかに、彼女はどれほどの愁いをみたことだろうか。渇望の激しさはそのおとこの油断のなかに彼方の女の実在を読んだ。
 「ここを出たら」
 おとこたちがそれを呼ぶ名前は彼女を呼ぶ名前と殆ど似ていた。それを彼女はみずからの子のように感じていた。それをのみこんだ刹那のおとこのうめき声は偶然の泡に似て意味を欠いた不気味さで裂かれていた。
 「ここを出たら」
 有子は靴を脱いで、沖へと踏み出した。視界を覆って赤い雨が降りつづけた。沖合の船が汽笛を鳴らしたのかもしれない。そして、真っ白な髪の幻影だけが残った。

 「そうかもしれない。でも、あなたにも、聞こえるはずよ」
 女は片手で狙いをつけたまま、左手で何かを取り出し、おれに素晴らしい速度で投げてよこした。受け取ったものは、一冊のぼろぼろになった書物だった。片手に収まる小さなもので、表題も殆ど日にさらされて掠れている。よくよく見ると、右上の隅には血痕だったらしい茶色の染みがついていた。表題には、「マルドロール」とだけあった。
 「なんだ? まじないか」
 女はほほえみを浮かべ、いった。なぜか、銃をかまえた手を下ろした。
 「いいえ。ただの本よ。わたしは読んだこともないわ。ただ、それをわたしに読んできかせてくれたひとがいったのよ。海はまだ消えてはいないんだ、どんな愚か者でも、ふとたちどまり、自分の恐怖に出会うときなら、その波の絶えざるたかなりを聴くはずだって。あなたはいま恐がっている。わたしにはそれが何か分からないけれど、でももしそうなら、あなたには聞こえているはずだわ」
 あの、意識の下から泡立つ波のひびきを。

 ネイティヴ・アメリカンの或る民族には、始源の神話が現在であるような「夢の時間」という観念があるという。記憶は、すでに凍結した写真のようなものであるはずなのに、意識の底で、夢の時間を生きているかのようだ。沈んでいく。
 ……テーブルには草と見違えるほど華やかさのない緑や茶色の勝った花が飾ってあった。ガラスの細長い、緑色が透明のなかにながしこまれた模様の花瓶で、二人の真ん中においてある。この花瓶を軸に、線対称になって、下敷きのようなプラスティックのようなものでつるつるにコーティングされたメニューがふたつおいてあり、そこに原色のうさんくさい写真で、見本が見られると言うことになっていた。さきをあるいていた戸川は窓際の席に疲れていたのか、体重をすっかり預けきるように座った。そのまま、なんと言うこともなくこちらを見ていた。衣服は白を基調にしていて、ワンピースに、銀色のネックレスをしている。肌は焼けていて、いまもうっすらと汗が浮かんでいるが、冷房のせいで退いていき、つま先の鋭さとなぜか対照的だ。店内は予想とは違って意外にもごたごたと雑然とした感じが瀰漫しており、戸外とかっきりとわかれた場所という感覚を与えてくれず、悔しさを覚えずにいられない。なかでも、奥の方には学生の五人連れが声高に話していて、ひとかたまりの生物のようにたえまなく冗談をまき散らしていた。
 「こんなことがつづくの」
 「何が?」
 戸川の正面に座ると、彼女を見るよりさきにメニューを見た。もうランチタイムは過ぎていた。顔を上げると戸川はうさんくさそうに目を見ると、何かをそこにしばらく探していた。
 「目、茶色いね」
 戸川は貧弱な花越しに言ってよこした。そういう戸川の瞳も色素の濃い方ではない。好奇心で燃え立つような目で、彼女は顔をさらに寄せてきた。店員がその様子を退屈そうに眺めながら水をさっとおいて去っていく。高校生くらいの髪の黄色い男の店員だ。エプロンが似合わない。
 「どっかの血がまざってるのかもな」
 そういうと、戸川はきゅうに疎遠な顔をして、ふっと距離をおいた。瞳孔がせばまっていくのがはっきり分かった。奥の方の学生たちを肩越しにながめやると、今度は外をうつしたガラスのほうに顔を向けて、何かを納得させるように、こちらを見ることはなく、すこし、クーラーのせいでそそけだった肌がなおさら寒々とみえるような真剣な顔つきで、つぶやいた。
 「血なんて、どんな血もまざって濁って、どうにかなってるのよ」
 「何だよ、それ」

 ……女が、なかば以上はおれに対して話しているのではないことは明らかだった。歌うように女はそれからたわごとめいたことをいくつもいったが、おれにはその殆どが理解できなかった。おれは、セイレンにつかまるのではないかという恐れにとらわれていた。
 「で、その男はどうしたんだ? いま、そいつはトイレか? いや、殺されたか」
 あいつは返辞を拒んだ。だが、その視線を無意識に追ったとき、おれにとって、たしかに恐怖の最初のおとずれがあったのだというべきかもしれない。女は、足下を一瞥したのだ。そして、それまでおれはなにか訳の分からないごみのような黒いもの、フナムシのたかっている吹き溜まりとしてしか見えていなかった女の足もとのものが、死骸だと気がついた。
 「降りろ」
 おれは咄嗟に女の拳銃に警戒するこころをわすれて近寄り、いやます悪臭に耐えながら、女の右手をつかんだ。女は間近で見るとやせて落ちくぼんだ、しかし凄艶な目でおれを執拗に見つめながら、決して引きずりおろされることに抵抗しなかった。
 女の足が地に着いたとき、その衝撃で、ざっと虫たちが死骸から離れた。黄ばんだ骸骨に、食べかけのチキンのように黒く変色した肉がこびりついているのがちらりと見えた。
 風がまた速さを増していた。どこか遠方で銃声がなり、そして止んだ。
 おれは吐きそうになっていた。だが、女を襟首をもって立たせ、銃を顔に突きつけた。
 「きちがいのふりはやめろ。持っているものを渡せ、いいな」
 「なにを恐れているの? わたしはなにも持っていない。あげられるものはもう、あげたわ」
 「なぜ、こんなところにいる? あの死骸は何だ?」
 「誰だって、どこにでもいるわ。死体だって、どこにでもあるじゃない。何もかもばらばらになったのよ」
 「うるさい。いいか、黙れ。おまえはいまからおれの女だ。そう思え」
 支離滅裂だということは、思い返す今だけでなく、このときから分かっていた。おれは投げつけるようにそれだけいうと立ち上がった。女の銃を奪うことは考えていなかった。
 すでに女には何度もおれを殺すチャンスがあったということを悟っていたからかもしれない。

 そうだ。こうしておれの分別は消え去った。あらゆるためらいは、馬鹿げた思いつきに道を譲った。それまでのおれの無法が追いつめられたすえの暴発でしかなかったのに比べれば、いまのおれはたちの悪いいかさま師だ。利得をいかさまで得ながら、それを惜しげもなくくだらない用途についやして悔いることがない。あらゆる奸智はあげてあいつとの断ちがたい絆をこんがらがせるためだけに働き、惨めに思い切りのいい「結果」にはたどり着かない。瞬間の恩恵は奪われた。欲情と論理のからみあいのなかで、おれは自分の本音を見いだすべき鏡をみずからの手で割ったのだ。
 一番手近の街にたどり着いたとき、それは鴉の死骸で出来た墳墓のように見えた。黒く、輪郭も定かではなく、その城壁で囲まれた塔のようなかたまりはそびえていた。その沈黙にはなにか気味の悪い、歴史という言葉があつらえむきのような悪意がわだかまっていた。二十年のうちに高層ビル群が風化して、奇妙な「谷」と「丘」をつくっている。その崩れ去る砂浜の子供の遊びのような造形のあいだに、辛うじてプレハブやバラックがパッチワークのように走る。ときおりまだ動いている車やバイクが遠くからでも見えるが、それは何か儀式的な役割を果たしているに過ぎない。なぜなら、さらにそれらに目を凝らせば、そうしたものは飾り立てられ、しかも牛馬に引かれて動いているにすぎないからだ。

 おれは、そのとき、始まりを恐れた。それが何の始まりとなろうと同じ事だった。「しるし」に世界はみちていた。そして、おれはあまりにも、激しくその何かを欲していた。