惨禍と遠方の歌

 天窓からのようにちいさく切り取られ、遠く霞んでしかみえない空の青が午後をつげていた。
 林立する塔が天を完全に覆い隠し、それらの高層建築のあいだもまた、無数の渡り廊下や無理な建て増しや回廊や、歩道橋のようなもので繋がれていた。
 そもそも、どの層が基準となる地上で、どこからがかつて地下であったのか、知りうべくもなく、知ったところで意味もない。陽光はただゴシック建築のドームから降り注ぐひかりのような、恩寵のように漏れる断片的な光線だけがとどき、ほかにはいかなる照明もなく、沈黙に満ちた暗がりだけがガランとひろがっている。
 したたり落ちる水のおとをどこかに聴きながら、わたしは立ち上がってもう一度ちいさな遠い青を見上げた。あの青には、もはや寓話としか思えない幼いころの記憶が、絡まっている。白い記憶は、まるで音のない映画をはやまわしで見ている時のように、せつなく、忘却のにおいを漂わせて、遠い。
 薄汚れた寝床から立ち上がって部屋を見回すと、木製の長椅子のうえで<白いネズミ>はまだ疲れ果てた顔で眠りこけている。青年の時期を通り過ぎ、精神的な老年をすでに迎えながら、躯はまだ老年のゆるやかさを受け入れようとはしていない。わたしは彼の事にだけはくわしい。このつまらない屑のような男が、唯一わたしの共棲者だったのだから。
 部屋というと誤解を招くかも知れない。屋根はないし、壁とは云っても無数の出処の知れないがらくた、壊れたタンスやイスや家電、それに段ボールや木箱や得体の知れないコンテナ、雑誌や書物のつつみ、ごみや塵芥がまわりをかこんでかろうじて、偶然のように壁をなしているというだけなのだから。
 もともとは、此処は街の児童公園だったらしい。やがて土地を失った開発が地上と地下を垂直に侵蝕しはじめたとき、この場所からはあふれる陽光が奪われたのだ。わたしは一条の半径十センチほどの光線が常にあたっている場所をこの部屋のすみにみつけていた。それはそれまで、たまたま遮られることなく辿り着いたというだけのひかりで、弱々しく、小さなものでしかなかった。
 光線はかすかにその姿をほこりを浮かび上がらせることでしめし、それはまるで、海底でプランクトンたちがその華やぐような空しい生をダンスによって飾っているかのようだった。

 眠れ 眠れ 母の胸

 うろ覚えのこもりうたを歌いながら、わたしは顔を洗いに井戸を探した。いつも、ごみで塞がれてしまわないように井戸のうえにはものを置いて覆ってしまう。それで分からなくなることが多かった。井戸と云ってもただ、下の階層にむけてぽっかりとあいた亀裂に、バケツを吊るしているにすぎない。下で、何がおき、どうなっているのか、知ることもできない。ただ、経験的に、水がそこにはあると分かっている。ろくな水ではないが、さいわい、ここは何処もうすぐらい。
 声に驚かされたのか、背後でみじろぐ気配がした。<白いネズミ>は奇妙なくらいある種のことには敏感なのだ。ただ、それがどんな区別ではたらくのか、いまだにわたしには分からない。

 モウ、オキテイタノカ。ナンノウタダイ?

 わたしはバケツを奈落へ放り投げ、振り向く。かれの声は奇妙なかすれかたをしていて、とてもその容貌から想像できるこえではない。一度、そのことをいうと、かれは、

 アア、ソウダ。おどらでくノコエニ、ニテイルトイワレタコトガアッタ。

 と、こたえた。けれど、それはどんな生きものなのだろう。見るにたえない何かなのではないだろうかと、わたしには思えてならない。何かが、こわれて、引き裂かれている。

 こもりうたよ。夜や闇や眠りが恐ろしくないように歌われた歌。

 わたしはいつも、祈るような引き付けられるような気持ちで、バケツを引き上げる。

 キミハ、ヤミガコワイノ?

 わたしには分からない。わたしは恐れているのだろうか? このガランとした鉱山の底のような多層都市の廃墟で、得体の知れぬ男と暮らす暗闇を。たまさか、すれ違う人々とは、けっしてわたしたちは会話をしようとはしない。だれもが、静けさだけをひたすら愛しているかのようで、だが、悲鳴も、死骸にさえも、わたしたちはめぐりあわないわけではない。
 このまま、廃墟の一部として、似つかわしくなることができれば、それが最善なのではないだろうか。なぜ、そんなことを考えるのだろう。水のしたたる音がしている。

 恐くはないわ。でも、恐くなくなってしまったことが、恐いのかも知れない。

 ひきあげたバケツをのぞいてみると、なかには、ちいさなガラス瓶がはいっていた。急にわたしは予感に襲われて、泣くことができたらと激しく思った。ガラス瓶の壊れのなさと煌めきは、ひどく魂に襲い掛かるような切っ先を秘めていた。

 ミルンジャナイ。ミテハイケナイ。オヨコシ!

 瓶を見つけると、<白いネズミ>はめずらしく切迫した声をあげて、近付いてきた。かれの歩き方はすこしおかしいので、ぴょんぴょんとうさぎのような歩き方になる。わたしはかれを待ちながら、まるで、ふつうの男女のひとこまのようだ、となぜか思っていた。それにしても、この男はどうして、たなごころの瓶のなかには手紙があるに違いないと決めつけたのだろう。
 かれはわたしの手から瓶を奪うと、踏み付けて粉々に砕いてしまった。破片は、陽光の中でならきらきらとかがやいて、白い花弁のようだったろうと思えた。

 アア! ドウシテコンナニウルサインダロウ! コエガ、トマラナイヨ。

 そのこえが静かな暗闇に広がって、消えていった。

 わたしはさらわれた子供たちのすべての伝説の事をおもう。すべてのラプンツェル、すべてのアリスのための伝説をおもう。わたしのためのことばはそこに記されているのだろうか。わたしはこの男の回路のどのような場所にいるのだろう。そしていったいどこからがわたしで、王子様にたすけられたところでそれはもうひとつの塔へ移るだけなのではないだろうかと思う。たとえいくつ歌を知っていても、そこにはわたしがいないのだ。

 いつも唐突にかれはわたしをもとめた。
 ざらざらとした起伏の大きい、しわがれた手が、何かを探すように、肩口から触れはじめ、起伏にそってその手は奇妙な慎み深さで、いつも離れようとするかのような距離を保ちながらうつりゆく。さざめきのようなうでは乳房を見い出すとそれにつかまるかのように一瞬、立ち止まる。そして気が触れたような執着で何度も何度も撫でさすって、ゆっくりと背後から顔がわたしの唇を奪う。つながれた口からは生暖かい液体や舌がわたしのうちがわの何かを吸い取ろうとし、わたしはまるでそれが吸い取られたかのように感じて、ひとつの泉をイメージする。
 それからかれはわたしを向き直らせ、肌と云う肌がふれるように抱き寄せる。かれの手だけは別の生きもののようにあいもかわらず毛布のように背中を撫でさすり、ゆっくりと手は降りていく。それとともにかれの舌も降りていき、まるでわたしにひざまづき、何かを祈っているような恰好になっていく。そしてわたしは小さなおそれを抱きながら、はじめて激情を感じはじめる。

 ソレニシテモ、ノドガカワク!

 どこからか、カーン! カーン! カーン! という音がしていた。
 眼をさますと、まだ、夜だったが、何かが変だった。あたりの無数の廊下や階段、配管やごみは静かだった。静かすぎるのだとやがて気がついた。すべての死者がよみがえるという夜のように、この静けさは無気味だった。月明かりはかすかに一条だけさしていた。いられなくなって、おきあがると、何か黒い影が<白いネズミ>のうえに覆いかぶさっているのが見えた。それはパントマイムのようで、求愛の儀式のようでもあった。奇妙な時間がすぎると、その影はゆっくりと立ち去った。
 どれほどか経ってから、かれの長椅子へと近付いた。血のにおいが急にただよっていて、まるで花がそこに咲いて、濃厚な芳香で虫たちを誘惑しているかのようだった。
 まだ、かれは生きていた。何か、刃物のようなもので、腹をさされていた。喋ることができなくなっていた。わたしはこもりうたを歌ってあげようと思ったが、一言も、思い出せなかった。

 気がつくと、もう、死んでいた。わたしはかれの躯をイスから引きずりおろし、ひかりの漏れて照らすあのわずかな場所のしたに、その一晩かけてうめた。花が咲けばいいと思った。

 わたしは独りで暗闇の中に立っていた。
 哀しみは失ったもののためではなかった。こうしてひとり立って、何かを探しているようにして、こもりうたを忘れていかねばならないことのためだった。徐々に夜はあけていき、静かに立ち尽くしていたものだけに見える、かすかな白みがゆっくりとゆるやかにおりてくる。漏れてくるひかりだけではなく、まるで小さな粒子か水のようにかすかなひかりが満ちているのだ。それは暗がりには変わりがなかったが、たしかに何かが違っていた。
 見上げると、あいもかわらず薄っぺらな空の青がかすかに遠くのぞけていた。
 何もかもがいとしかった。だがこのいとしさを信用してはいけないのだと、思った。

 (彼女がやがてその場を立ち去ったあと、どこか上層で何かが壊れたのか、落ちたのか、大きな音がしたかと思うとふたりが暮らしていたときにはありえなかっただけの陽光が無数の矢のように降り注いだ。照らされたその場所には無数の塵芥とともに、無数のガラスと、無数の動物の死骸と、そして彼女が無意識に地面にパイプや棒やなにかでさまざまなおりにえがいた悪戯がきが見い出された。それらは文字のていを成していなかったが、ちりばめられたガラスの破片とともに陽光を反射して、咲くはずもない花の代りとなっていた。)

 ネガッタモノハ?

 クラガリのなかのワタシノひみつを、そして、アナタをもとめることだったわ。

 ココハ、ドコナンダロウ、コモリウタヲ、ボクハタダ、オシエテホシカッタンダ。

 水はまだ滴り落ちている。もはや、空の青を見上げるものはない。