星猫たち(ティヌーヴィエル)

 ジル・エダインが姿を消したとき、グローイン大の情報芸術学部でわたしは前−星間期文学を専攻していたのだ。マドへの緊急通信を受けた途端、頭がまっしろになってしまった。聞いてしまうと変更できなくなってしまうような気がして、耳をふさいで青い画面の文字が蛇のように溶け出すのをながめていた。あのときまだ、息をしなくなったというのがたしかではなかったのに、わたしはめのまえで彼の目が瞑ったように感じていた。三年越しに暖めた将来の夢が音を立てて閉じるのが目に見えるようだった。急にほうり出されたように頼りなかった。どこか覚めたところで、明日は学校を休まなきゃと云っているのが聞こえた。そうやって操られているように通信を切ったのだ。
 あれから七年経った。担当教授のレイニは軍に志願したときとめてくれたゆいいつの知人だった。ジルがいなくなったわたしが学校にそれでも通い続けたのも彼女のおかげだった。レイニはどうして軍に志願しなくてはならないのか知りたがったが、それはどうせ分かってもらえるはずもないことだった。わたしは、ジルの体を回収したかったのだ。永劫の絶対零度のなかでたった独り漂い続けるジルのからだは、いまも七年前と変わっていないだろう。それは、わたしにとってどうしても解決しておかなくてはならないしこりだった。
 もはや今となってはそれがしこりだということしか分からなくなった。回収してどうしようというつもりだったのかも七年が押し流してしまう。愛したおとこのからだを埋葬したいという感傷だろうか。違うという言葉を飲み込みながら、深い漆黒の海を眺めている。
 ちょうどわたしにジルのからだが沈んでいる宙域への哨戒任務が与えられたのは戦争が始まって二年たってからのことだった。だれもが行きたがらないサルガッソスペースにわたしが行くと知ったとき、同僚の反応はさまざまだった。どうせわたしはみなに好かれている訳ではなかったのだ。
 海があまりに深くて暖かいように思えてならない。だが現実には窓の外は冷寒に浸されている。その冷たさが隔壁を越えて染み込んで来るようでわたしにはまるで漆黒の海に抱き締められているかのようだ。ジルをその懐に抱く海は、静かだった。哨戒機の計器を見ながら、マドに刻々と映し出される戦況を眺める。この瞬間も何万人ものジルが生まれているのだ。そう、思おうとしたが、それは安手の感傷の身振りでわたしを通り過ぎて行く。探査計が、星間航行機の残骸らしい物体反応を叫び立てた。
 計器に映る小さな染みが動いているのが不思議だった。そこには、連邦の部隊はもちろん敵の部隊もいるはずがなかった。ほんのすこしのミスで残骸の中に加わってしまう危険な重力の潮汐地帯なのだ。
 怪訝に思いながら近づいて来る残骸の海をみている。とおくから見ているとひどくおもちゃのように見える残骸が、近づくとピラミッドほどにも拡大し、遠近感が狂ってしまう。
 さいしょ、死体だと思う。その白い散乱して浮遊するものは、本当の地上の海の中のように漂いながら一カ所に集まっている。それは驚くほど密集していて花のようだった。ついで、幻惑する。
 白いつばさの有るねこたちが無数に密集している。あとからあとからどこからか現れて、そこに集まっている。近づいて来る哨戒機を気にもせず、絶対零度のなかにいる。
 哨戒機はねこたちの中に分け入った。窓にはわたしに移り気な関心を向けながらまた去って行くねこたちがぶつかったりしていく。しぜんにしばらくすると路があき、その向こうには、分かっていたのかもしれない、七年前がまどろんでいる。ジル・エダインが沈んでいた。
 このねこたちがわたしの見る幻なのかどうかわたしは考えようとしない。機密服に着替え、ハッチを空ける。ねこたちはなかに入って来る様子はない。無数の煌めく図りがたい瞳が交錯している。
 ジルのからだは凍結してそのままで保たれている。気圧差で膨張するはずの皮膚もそのままで、残骸や塵に傷つけられてもいない。ただ、肌がケーキのようにいやな感触だった。ねこたちにまとわりつかれながら、わたしは母星の壊滅の知らせを聞き流し、ジルのからだをどうすべきかと思う。埋める処はもうないのだ。
 わたしはとにかく彼のからだを収容しようとした。
 手が触れたとたん、七年の日々が目に見えない形で侵食し続けたジルのからだはもろくも四散してしまった。肉が剥離して行く。ばらばらになったかれの内臓がねこたちのもとへと流れ、ねこたちはそれをよけてしまう。醜悪なのか美しいのかさっぱり分からない有機的で冷たい有り方で、からだの残骸が散らばって行く。後には幻のねこたちがただ喧嘩したりまとわりついたりしている。
 それは静謐なながめだった。
 突き放されて、彼は勝手だなどとわたしは急に幼児のように我が儘なことを思ってしまう。思わずその自分がおかしい。きっとわたしは本当はまだかれに抱き締められていないことなどをずっと恨みがましく抱き締めていたのだ。ジルがその刹那何を思ったかを考えもせず。
 ふと、冷水を浴びたように一つの思いが浮かんできた。七年前からここにはこの残骸があるだけだったのだ。ジルは初めからあの日に永遠に戻らなくなっていたのだ。かれはわたしの肌と血と言葉とに混じりあい溶け合って沈殿しているほかは、どこにもいないのだ。そうおもったとき、ねこたちは薄れ始めていた。そして、自分の息遣いを感じた。
 いままで、何も見ていなかったようだった。
 無数の巨大な残骸が四囲には浮かび、その彼方には星々が遥か遠くから呼びかけている。もうねこたちはいない。ただ星雲と星々と残骸と哨戒機とわたしがいるだけだ。なつかしい人々のとの膨大な距離が激しく知覚され、すべてが不意にクリアーに見えてくる。
 胸に、針のように孤独が迫ってくる。けれどそれは、本当はずっとまえからわたしが感じていたものだった。
 ジルの言葉を思い出す。
 やあ、きみはいつもまじめだねえ。
 わたしはどこへ行こうとしていたのだろう。