奏でられるものはひとつもなく

 どういうわけか、住人のすべてがすがたを消した、或る広大な都市の地下には、列車が日々、運行していたことのたしかに痕跡に、縦横にトンネルが張り巡らされている。その広大な都市の廃墟には、住人たちが引っ越しをしたという痕跡はなにひとつなく、ただ、生活のごく自然で、どこにも暴力的なもののない中断があって、まるでそれは長時間露出の写真から、魔法のように動くものの姿だけが消えているのによく似ている。この都市は、広大な平原と海とが接するところにひろがり、その境には真っ黒なみずをたたえた運河が走っているのだという。この都市が、砂に埋もれることもなく、水に浸食されることもなく、ただ、ゆっくりと存在し続けているということについては、いくつもの意見が過去に出されたが、実際にその都市にいきついたものがいないのだから、真相は杳として知れない。地下鉄が走っていると云うことからして、その都市の場所や時代を特定しようと云う試みも、すべて推測の域を出ず、東方見聞録にその記述がすでに見られると云ういかがわしい伝聞があるかと思えば、それは二〇世紀の日本の首都の仮想的な模造なのだというもっともらしい意見もあるが、いづれもではどんな根拠があってそういうのかと尋ねてみれば、そのもっともらしさそのものが根拠になっているにすぎない。
 この広大な都市の中心には広大な湖があり、不気味な竜がそこに住んでいるのだという、地下鉄にもそぐわない神話がささやかれているのだが、この湖はあまりに深く、濁っているので、それをたしかめるすべはない。真夜中に、この湖の外周の街道を歩いていると、不意に、黒い影が、蒸気のようなものを吹き上げているのが見られると云うのだが、その歩いていたのは誰かという肝心なところになると、途端に話は曖昧さの闇の中に消えていく。
 およそ、このような広大な湖を中心にかかえて、この異様な都市はどのようにして機能していたのだろうかと疑いが兆せば、それはおもに、湖の真下をさえ貫通する地下鉄網のお陰だったとおもわれ、これによって分断されかねない都市の諸部分は統合されていたのだった。ふたつの中心が、湖を隔てて、ふたつの綱渡りの綱をはるべき塔のようにそびえ、この二つの都心には対照的な、しかし巨大な駅が存在しているらしいのだった。一方の都心には煉瓦づくりの三階建て程度で、横に迷路のようにひろがった洋館の駅舎があって、建て増しに次ぐ建て増しでこの駅舎の本来の出口も入り口も見失われている。他方の都心には、完全に正方形と立法錘をなすたてものからなる硝子とコンクリートから成るビルがあり、このビルは鏡のように外装を反射する素材で覆い、ただ直線だけから輪郭を構成していた。さらにこの抽象的な駅舎のまえの広場には、炭田のような異様にふかく比較的大きな穴が穿たれており、この穴の内部には何もなく、真昼の視力でさえ、底を見ることは出来ない。
 一説に依れば、なおこの都市では、地下鉄だけは規則正しく運行しているのだといわれ、なにものも運ぶことなく、時刻表通りにうごきまわる列車の音が地上から聞こえさえするのだという。

 内的風景、というものがある。
 わたしの内的風景が、この都市だとあえて主張しようというのではない。それでは、あまりにもあざといというものだろうし、何より、その詳細さが疑惑を招くだろう。いったい、おまえはいつ、そのような精確な内的測量の技法を学んだのか、と。まったくそのような問いには確かな根拠があると見なさなければならないし、この一幅の地図が意味しているのは、ただわたしの貧しい創意というものでしかないだろう。しかし、あえてわたしが主張しようとしているのは、わたしの内的風景が、このジオラマにどこかひどく似通っているだろうということなのだ。これは、何ら量的な譲歩というようなものでも、物事を曖昧にしてごまかそうという手口でもない。ここには質的な差異が働いている。「似通っている」というのは、「同じである度合いが低い」、あるいは「低い度合いで同じである」ということでは、「ない」。「似通っている」というのは、ひとつの関係の独自のカテゴリーなのだ。勿論、同じであることと、似通っていると云うことは、どちらもよく似通っている。そうだといって、似通っていると云うことをひくく見積もる理由にはならない。似通っているということは、一方が他方を呼び出し、そのうえで反目させるということに他ならない。同じである部分があるから連想を引き起こすのだという反問には、さしあたり、同じでないものもまた一方が他方をほとんど必然的に呼び出すのだとこたえておこう。
 この内的風景は、いくつかのしかたで読み解くことができるだろうし、そのうえ、それがわたしに属する言葉によって語れると明言されたからには、なおさら短絡的な断定はいくつも可能だろう。そうはいっても、わたしはこのジオラマをわたしの内面をときあかす暗号であるなどとはひとこともいっていないし、そのような断定には積極的に反対したいのだ。
 わたしはあなたを混乱させることを意図してなどいないし、気の利いた逆説をのべようなどとも思っていない。この都市のことを述べるためには、ありうる誤解のうち予測できるものについてあらかじめ警告しておきたかったのだ。だからといってなおさら、この都市には真理やそれに類似したものなどあるはずもないし、ただそれはわたしの内的風景に似ているにすぎない。ただその類似は、ひときわ、全体としての類似であって、どの部分をとっても、わたしの内的風景の部分に似ているなどということはない。それは理不尽に聞こえるかも知れないが、そもそも内的な風景の部分などと云うものが想像の他でしかない。

 この都市のどこかに一羽のきららかな色彩をもった鸚鵡がかごに閉じこめられて暮らしている。鳥かごはごく平凡な空き家の二階の窓枠に吊されており、雨風をしのぐことが出来る。食べ物は朝になるとなぜか補充されていて、かれがいくら啄んでも減ることはない。鸚鵡はこの広大な都市で唯一、地下鉄をのぞけば音を立てる存在であり、いつもなにやら、思い立ったように喋り続けているが、その声はよく耳を澄ますものには、都市の周縁からでも聴くことが出来る。
 実際、都市のもう一方のはずれには、自動筆記機械があって、この鸚鵡の声を長い長いはてしなくながい巻物の羊皮紙に記録している。だがそれは、いまだかつて存在したこともなく、これから存在することもない文字で書かれていて、しかも刻々とつかわれている文字は移り変わっていく。

 都市の周縁では、物凄い繁殖力をもった雑草が茂り始めており、それはほとんど壁や道にひびをきざみ、それを転覆させ、征服しようという勢いをしめしている。そして、通例よりもこの都市では四季がはやく巡るのだが、そのたびに黄色い花粉が、雪かなにか華麗な伝説のように舞い上がり、霧のように地上を染める。ときならぬ花々は五色をもって咲き誇り、祝福のようでもあり、呪詛のようでもある。

 わたしはいつも、この都市の上空をどこからか来たのか分からない羽毛がひとひら舞う度に、そのいいしれない音楽を見つめ、おののく。

 都市の外側には、荒野がひろがっているのだが、その荒野には、細々とした、しかし、一条の道がのびていて、彼方には霞んだ、高い山脈がひろがっている。

 そしてまた、ぼくは最近気がつく、死に絶えつつあった都市の地下には、ネズミたちがふたたびうまれつつあるのだと。
 だがまた、雑草たちの繁殖もやむことなくすすみ、やがて都市を覆滅するだろう。

 そして、また、不可視の、鳥の……声が。

 音楽。

 筆記機械が、ゆるやかに故障してく。