ずっと、夏というものが薄れていくのは風のせいだと思っていた。
夏の終わり頃から、きゅうに魂を吹き飛ばすようにはやくなっていく風が、忘れてはいけないたくさんのことを、かけらにして、散らせてしまうのだと、そう思っていた。そらにむけてしぶきをあげて、陽炎をともないながら、壊れて崩れて、はなのように透明に盛りをえがく噴水がすいこまれていく水盤に、わたしは裸足をつっこんで、ばしゃばしゃと漕いでいるのがすきだった。日がぐるりとそらをめぐっていつのまにか燃えてしまって、なにも見えなくなるほどくらくなる寸前の濃いひとみのいろのようなゆうぐれまで、わたしは家にかえらずにサンダルを水盤のなかで泳がせていた。やっといのちを得たさかなのように、ちいさなしろいサンダルはながれにまかせて、ふやふやとながれを楽しんでいた。いよいよ帰らなければならないときまってからも、わたしは手から逃れるサンダルを追い回して時をひき延ばしていた。だが、しぶきのひとつひとつが夢見たように鋭い硝子の切っ先であったなら、わたしの躯はそらにあかい噴水を咲かせていたに違いなかった。
母は居間をカッターできりさいてずたずたにしてなつの初めに出ていった。何年も怯えきった飼い猫をふたたびひとに馴れさせようとわたしと妹は無駄な努力をしなければならなかった。彼女の瞳のなかにどんな真実が焼きつけられたのか、知りたいという恐れがいつもあった。にくらしくて、泣きたいほどその猫がいとしかった。
夏の記憶は無惨なとめどなさで、灼かれ熔けて、そうしてどろどろに崩れてしまうのだと知った。
わたしのなかでそのとき、すべての風が凪いでいた。
水盤をおよぐサンダルのいのちをわたしはいつもせつなく抱きしめていた。枯葉が舞い始めても水が汚れ始めるその時までは、わたしは泥で全身を汚しながら噴水で頑固に遊んでいた。噴水はいまだに空へとむなしい挑戦の叫びをあげ、けっして秋だからといってなにもかもが衰亡に瀕していたというわけではなかった。燃え上がるような凄絶な夕陽のあかさは真夏からすでにこのときを予告していた。死も再生もなくて、ただ螺旋をなす秋の記憶への呼びかけの声があるだけだった。思いだそうとすることはいつももうなかば失われていて、そのころに妹は処女をうしなった。
夏は終わっていなかった。日が噴水の水盤のまうえにかかり、噴水が水の欠片をばらまいてうつくしく、すべてのばらばらな乱反射のまぼろしを描いてくれる瞬間がめぐるかぎり、わたしには夏の終わりはなかった。
蝋のように熔けて落ちていくその夏のことを、なぜかわたしは愛しているかのようだった。
めくるめき、一瞬まっしろに目が見えなくなって、そしてそらからふってくる水のかけらを浴びるときのことをなんといえばいいのだろう。
そうすれば、忘れてはならないたくさんのことを忘れられると信じていたのに。