アンブレラ 

 ガラスで出来たコップに赤い花びらがごみのように浮いていて身じろぎもしないのは醜悪だろうか。

 曇天に真山が西武新宿駅のまえの信号で漠然とビラ配りのアルバイトの疲労したかおつきをながめていたとき、見知った顔が群集から抜け出してくるのが見え た。黒塗りの街宣車が信号待ちをしているのを背景に、彼女は水の中で動くものを見つけたさかなのようにつかつかと歩み寄ってきた。先月、アルバイト先の飲 み会で居酒屋に行ったとき、そこでアルバイトをしていたひとで、そのとき真山は泥酔した同僚が彼女にしつこく絡むのを傍観していた記憶がある。だから、別 に向こうから積極的に接触してくるようなおぼえはまるでなかった。

 真山誠は九州某県の出身で両親とも富裕ではなく、ちょうどふたつの湾岸戦争のあいまの世代にありがちなどっちつかずさを事あるごとに発揮して、後輩から は常に敬遠されたり実体もなく尊敬されたりバカにされたりして日々を送っていた。眼前のものを見ているようで見ておらず、何の脈絡もなく矜持を奮い起こし て立派なことを言い出したかと思うとすぐに腰砕けになり、だれかのせりふではないが、勇気がないのではなく持続しないだけだ、とこき下ろされるに値した。 もっとも本人はそうしたことをほとんど気にしておらず、天気の変化やテレビの中のタレントなどの消長に一喜一憂して幸福に暮らしていたのだったが、身体が 弱いせいかよく胃を壊して通院する羽目になった。美点といえばひとを憎むことの薄いことだったが、これもひとよってはまさしく欠点に数えられたかもしれな い。

 「ちょうどよかった。靴選ぶの手伝ってくれない?」

 よく見ると気合を入れて着飾っているのに表情はさっきまでうんざりしていた痕跡が残っていて何となくちぐはぐだ。すでに有名な百貨店の紙袋をいく つかぶら下げていて、声が心なしか低いのはどうやらこれが素の声であるということらしい。総じて、なにか気に入らないことがあっての気散じにつきあわされ そうな趣だったが、もともと真山は親身な声をかけられれば犬にでもついていくようなところがある男で、まるで旧知のようなあいての押し出しの強さにあわて て自分の応対も取り繕ってリラックスした返答をしようとした。

 「いいけど、何処に行くの?」

 考えてみればそんなことはついてくればわかることでとりたてて聞かねばならないようなことではない。彼女は、そういえば彼女はこの時点でも全く名 乗る気配がなくその必要も感じていないようなのだが、探るような、つめたい、というか、真山の主観では見透かすような視線で一瞥して黙殺し、さっさと歩き 出した。しかし、どうやらべつに真山に荷物を持たせるつもりはないようだった。

 信号をわたると、ちょうど牛丼屋があり、その脇を通り過ぎようというとき、二人の横をホームレスが通り過ぎた。かれは全身垢だらけで肌は赤黒く露 出していて、髪の毛は鳥の巣のようでそこから何か生まれそうだ。周囲に自分の臭いで移動勢力圏を誇示しながら、なにかぶつぶつと不満を漏らしてぶらぶらし ている。通り過ぎながら、真山はむかし自分が病気でうずくまっているホームレスの老人のよこを話しかけもせず通り過ぎたことを思い出していた。真山の放恣 な夢想はときとしてかれらを失われた王国のいまはおちぶれた民として考えさえするのだったが、それはひとつにはかれらの話す言葉が発音の不明瞭なためとこ ちらの無関心もあって聞き取りにくく、異邦人の言葉のように思えるためだったかもしれない。

 「違う! こっち」

 あらぬ方角にまがりかけていた真山の腕を引っ張ると、彼女はアルタまえの信号を渡った。新宿駅とアルタの間には島のようになった広場があって、早 朝にはここに屋台が一台か二台出る。真山はここではじめて妙な成り行きになっているなあと思い始めた。理由はよく判らない。

 そうこうしているうちに真山は地下鉄に自分が座っていることに気がついた。地下鉄は暗闇の中を走る。轟音が心地よい背景音をなし、大地の腹の蠕動を感受 させる。だんだん真山は腹が立って来ていた。が、なんとなく横に座っている彼女に文句を言うのは恐い。

 駅が通過するたびに乗客は減っていく。降りるひとは多いのだが、乗ってくる人があまりいない。新木場をすぎたころには、ほとんど誰も居なくなって いた。唖然としていると、地下鉄が地上に出たのだが、窓の外の風景は葛西のあたりとは似ても似つかない。川があるはずなのだが、奇妙なことにトンネルをい くつかとおりすぎながら、曲折の多い山間の線路を走っているようなのだ。

 不意に、彼女が立ち上がった。

 「すぐよ」

 前方を見晴るかすと、たしかに霧の中に屋根のないホームが見える。列車はそのままゆっくりと速度を緩めて駅に停車し、ドアが開いた。ホームには、 羽織袴のひとが数人、黒いスーツの人が数人、どうやらこちらを待っているようだ。迷いもなく彼女が降りると、そのなかの一段ぬきんでて背の高い壮年の人 物、かれはスーツだったが、お帰りなさいませ、といった。

 「どうも」

 と真山がとりあえず取り入るような挨拶をしかけると、その人物は

 「ああ、弟さんでいらっしゃいますね。お待ちかねですよ」

 と、いった。真山には兄はいないのである。

 通された座敷で彼女はちゃぶ台の真山の真向かいに座って、さて、と言った。

 「ひさしぶりね」

 「……いつから数えて?」

 「お兄さんは町外れに住んでるからあとで行って上げたら?」

 「ぼくは長男だよ」

 「本当に?」

 なんとなく非常にいやな感じがして、会いたくなかった。

 「待ってて」

 そういうと、彼女は立ち上がって、ふすまを開けて出て行った。駅前の民宿の二階の一室である。さっき迎えに来ていた人たちはかれらをここに通す と、どやどやとどこかに出かけてしまった。ここは山間の町、ごく穏当な、さしてさかえていない町のようだったが、高地なのか、いやに霧が濃くてものが見え にくい。

 真山は立ち上がって窓を開け、町を見晴るかした。しかし多少なりとはっきり見えるのは、水墨画のような山のかたちくらいだった。

 部屋を物色していると、鏡台の引き出しにノートが入っていた。何も書かれていない。ちょうど、ちゃぶ台のうにはペンがあったので、真山は何の気なしに日 記を付け出した。かんがえてみれば、そのときそうすることが自然に感じられたというのも変なことではあったかもしれない。

 と、しばらくした頃、宿の外で叫び声が上がった。

 *

 雨を見るとどうしても悔恨という言葉を思い出す。しばらく、ぼくはいとけない子供のように眠っていた。いつ、平和の眠りから遠ざかり、蝶と自分の間の他 愛ない混同から覚めたのかははっきりとしない。起きたときぼくは相変わらず民宿の二階にいた。窓の外は透き通った雨で墨染めに昏い。

 ずきずきする側頭部の不平不満をどうにか鎮めながら、ぼくは立ち上がって薄暗い廊下に彼女を探しに出た。廊下は黒光りするふるくさい板敷きの床に階段が 下へと地獄めぐりへの誘いのように続いていて、間も変わらず気分はゆれうごいている。

 世の中は地獄の上の花見かなという句もあるけれど、ここが冥界ならこのしたはいざ地獄だろうと芝居がかりの想像に心をはげまして、ぎしぎしとどこか懐か しい階段を下りていく。どうして古屋の階段はこうも勾配が急なのかいつも不思議だった。

 真の闇は階段の踊り場の隅にわだかまる。その辻を過ぎれば下界の明るさがさしてくる。闇は両端ではなくまなかにあって、ちょうど墨がうすくしろい紙に溶 けるように両側に消えていく。おりていく。

 降りたところはすこし広くなった入り口で、階段のおりきったところの向かいには下駄箱とはなやかな百合の花、階段をのぼらずにまわりこんで奥へ向かえば 待合なのか売店なのかテレビのある八畳ほどの広間があって、そこにぽつんと老婆が一人座っていた。

 ごめんなさい、おたずねしてもいいですか。

 そうきくと老婆は自然の流れでちょうどそのときそのタイミングで振り向くことが千年も前から決まっていたような仕草でぼくを見ておもむろに、

 ああ、あんたはお嬢さんと結婚なさった方だね、

 見上げるとうっすりと笑った。それはかさかさのオドラデクめいた笑いで、不快ではないけれどこころがかき乱されるような風の雰囲気をひそかに孕んでい た。ぼくは困惑して言葉を選びかねつつ、そのなだらかな成り行きに逆らおうとした。

 それで、お嬢さんはどちらに。

 老婆はぼくの後ろを覗き込み、ほれ、と云った。振り向くと、雨はいつの間にか止んでいてうつくしく虹の気配、ひかりあふれる玄関の外の道に、彼女があち らを見る様子で立っている横顔がのぞけていた。いままさに仕舞おうとする唐傘がひかりをしずくに反射させてきらきらしく、和装ではないはずのむしろわざと らしいほどにいまめかしい装いが却って舞うような彼女のうつくしさをひきたてる。引き起こされた眩暈に抗いながらぼくは彼女に声をかけようと息を吸い込ん で今しも、と振り返った彼女はぼくの姿に気がつき口にしいと指をあてて呼び声をとどめた。

 からん、からんと音を立て、流行おくれの厚底がなぜか似つかわしく、玄関と道の境を一歩越えると敷居はまさしくそとのひかりと内の闇の境界で、一瞬あざ やかに半身を白に半身を闇に染めた彼女は唐傘を颯爽と畳み込み、たちまち息遣いの触れるような間近に立って云ったのだ。

 いきましょう、もう時がないのですから。

 そこでぼくは彼女の手をとって、

 *

 たどり着いた墓地は若々しいやわらかな芝生に覆われていた。その生命に満ち溢れた印象に誠は圧倒された。墓石は仏式のものももちろんあったが十字架のき ざまれたものも相当数あった。墓地の入り口の木の柵になかばもたれた内部の様子を一望しながら、誠は通り雨に濡れて陽光に虹をかける芝のうつくしいあざや かさとそのなかに飛び石のように点在する墓石の廃墟のようなとりあわせに感覚を納得させようと勤めなければならなかった。

 「あそこよ、あそこ」

 小高い丘になったところには松かなにかの木が孤立して立っている。その傍らには木陰の利を享受してひさしい筈の墓石がすずしげで、そこには蔭になってい る所為で顔の見えない人影が立ってなにごとか墓石をみつめて考えているようなのだ。

 「あれがぼくの兄だってきみはいうんだね」

 「あなたはどうせ忘れてはいけない事だけを選りに選って忘れてるんだから」

 「あのひとは何をしているんだい」

 「弔っているのよ」

 「なにをあのひとは弔っているというんだい」

 「それはお兄様にお聞きなさいな」

 柵の途中にある壊れた扉をぶらんぶらんとあけて誠は小道をあるいていった。すると顔の見えないそのひとは気がついたようで、顔が相変わらず蔭になって見 えないままでこちらを向いて、不意に何かに気がついたようにうえを見た。

 あ、とつられて見上げた空には一羽のカラスが飛んでいて、

 視線を戻すともうそのひとはいなかった。ごまかされた気分のままで墓石の傍ら、木陰の闇に立ってみると、墓石は苔むして二十年は経っているような気配、 文字は読むのも困難で、濃厚なさっきまでそのひとのたしかにたっていたという気配を残響のように感じるだけだった。かさり、と音がして振り向くと追いつい ていた彼女が悲しげな様子で寄り添って、

 口付けた。

 また一駅通過した。がやがやと乗り込んでくる人の気配。

 すると膝の上になにかの気配がしたのでかれは目を覚ました。

 むっとする車内の空気は最低である。夕方のラッシュ、地下鉄は気味の悪い他人の詰め合わせに変貌する。これだけの人口密度なら大量殺人はいともた やすい。ただ自分が圧死して巻き添えになる事さえ厭わなければ。目を覚ましてかれは自分の横に見も知らぬ学生が座っていて、あの女の影も見えないことに気 がついた。だがそれだけならかれは少しも驚きはしなかっただろう。夢とみればいかにあやしくつじつまの合わない印象の連続、芝居がかりの連続でもただの 夢、この世の夢とは趣が違おうと、やはり夢はただ生きられるもの、決して驚きあやしむたぐいのものではない。

 気がついて驚いた事はさいぜんのひざの気配が夢ではなかったことだった。四五歳の幼子が、我が物顔にかれの膝にちょこなんと座っていたのだ。かれ が目を覚ました事に気がついた子供は、にかっと振り返って笑うとすし詰めの車内を厭いもせずに膝の上でかれに向き直り、慕いよるようにあやふやな手つきで かれのからだを抱きしめ、思いもよらない、いや待ち設けられながら、

 ぱーぱ、

 と云った。

 「さて、どうする」

 「決まってる」

 「へえ」

 「悪事に邁進するのさ」

 いろいろと付随する揉め事をなんとか処理してから、かれはあの店に彼女の消息をたずねてみたが、だれひとりとしてそのひとのことをおぼえているひとはな く、ただひとり、数年前にアルバイトをしていたひとに容姿が似ていると心づいた古顔の店員が知らせてくれた住所に、ふるい友人のていでおくった手紙には案 の定すでに彼女が死んでひさしいことをなげく文面が見出されたのであった。

 それからまた第二派で襲ってきた揉め事をなんとかしのいでから、かれはそのなきがらの眠るという場所に子供をつれていき、ふと春風のすでにふるめかしい 墓石をなでるのがめずらしいのか墓石のうえにのっかってあそぶこどもを眺めながら、

 いつかまた、夢にあえば、この子のことをはなして夜を

 とつぶやいたのだがなんの気配もなくただきらきらしいかぜが流れるだけだっ

た。

 帰るさに通り雨がザアと降って、ふたりはひとつのかさで帰った。