words


 おまえにはしるしがつけられているから駄目じゃ
 何が駄目なのかわからぬままわたしはしるしをさがす
 わたし以外の全てのひとに見えるらしいしるしを
 わたしは見つけることが出来ない
 選ばれたのではない、しるしを刻まれてわたしはうまれたのだ
 ならばとわたしは或る雨の日にひとり誓ったのだ
 このしるしを読むことをわたしのたましいとしよう
 そのしるしに刻まれたものがどんな不吉な予言であろうと
 このしるしをいつくしもうと
 だがわたしは自己に書かれたしるしを見つけることが出来ない

 ああ、そうして、ふたたび声を聴く
 おまえにはしるしがつけられているから
 仲間に入れることは出来ないと
 いたづらにかなしげなその声よ

 だが、しるしは誰がつけたのだろうか
 ほんとうにしるしはわたしのたましいを定めているのか
 読まれるべき、しかし読むことの出来ないこの暗号に書かれているのは
 本当は何でもないあたりまえのことで
 なんの神秘もありはしないのではないかと

 だがそのときには、いったい誰がだまされていたというべきだろう
 わたしは決してみずからに書かれたしるしを読むことが出来ない
 あたかも背中に書かれ、鏡にはうつらないかのように

 すべてのひとの顔つきにきざまれた皺のように
 わたしはひとびとのしるしから禁じられたしるしを見いだすこともできない


 いわおにはえしこけのしにたえ
 さざれいしからすなへとこわれ
 やまずながれるときのいとしさ


 蚊取り線香が消えていた
 蝶が巣にとらわれていた
 その下で蜘蛛は足が取れて藻掻いていた
 日差しが紫外線をとどけていた
 女が縁側でうちわを扇いでいた
 午前の月は半ばだけのぞけている
 金魚がゆっくりと茹だりかけている


 植物の欲情ほどはげしいものはない
 月を目指して真夜中にのびてゆく
 しかし空はそこなしの女陰であるどころか
 ただのうつろな無限なので植物は
 いつもかなしみのあまり聴くことの出来ない
 二酸化炭素からなる劇情を歌っている


 滝沢警部が到着したときにはもう現場はすっかり砂に埋められてしまっていました。
 砂の浸食がたかが警部が到着する二十分のうちにはたらいたというわけではないでしょうに、
 名高い鴨川邸の日本庭園はいってんしてぶざまな砂場そっくりになっていました。
 死骸は砂のなかに半ば埋まっていて、さしもの警部といえども自殺か他殺かすら見分けることは出来ません。
 生き残った鴨川家のひとびとは縁側から心配そうにこの庭のありさまをながめ、なにやらいい気な憶測を並べ立てているようです。
 敏腕明晰で有名な滝沢警部はただちに警官たちにすずしい震えるような銀の笛で集合をかけ、
 いまもあり地獄のように砂でうまりつづけている庭園について説明を求めたのでした。
 「これは時間です。わたしたちはあの死骸のように埋まっていくのです」
 「違います。これはわたしがさきほど見つけた地図ですが、それによればあの死骸の下にはすばらしい宝が埋まっているのです」
 「いいえ、そんなはずがあるでしょうか。この庭にはどこかに穴があって、そこから絶えず砂が漏れだしているのです。
 そうしてその穴をふさぎさえすれば、すべてのことが明らかになるのです」
 「間違いです。どうして誰も犯人のことをいわないのでしょうか。わたしたちのうち、もっとも厚顔なものが犯人で、
 そいつがこの砂をどこからか巧妙なトリックで招き寄せているのです」
 「なんのことでしょう。あれは砂ではありません。ほら、よくみれば蠢くかわいらしい虫たちです。死骸の周りにあつまるのは当然です」
 「いいえ、みなさんの言葉が壁にぶつかって文字の角がかけてしまった、そのかけらがこうして庭につもっていくのです」
 愚鈍な捜査官たちの意見ははてしもなく、真相はいっかな姿を現さないのではないかと思われました。
 ところがひとりの庭に紛れ込んできた老人が、そのとき老いさらばえた声で或る事をいったのです。
 その声を滝沢警部は聞き逃さず、「なるほど、そうだったのか」ともつれた謎を解きほぐし、
 すぐさま警官たちにそれを逮捕するように命じました。
 そうして警部は庭に降りてかれにお礼をいおうとしたのです。
 ところがそのときにはもう庭には何もなく、ただ一面の菜の花が見渡す限りにおいしげり、
 老人はかなたの地平線のほうにむけて風に乗って消えていたのでした。
 なにやらかすれた、さっきのすずしい銀の笛の音の残響だけがいちめんのはなばたけに響いているようでした。


 ねえ、どっかつれていって、とひとりがいう。
 さあ、どっかいこう、とひとりがいう。
 で、どっかって、どこだ?

 ここではないどこか、でもそこへ着けばそれはここであってどこかではない。
 青春なんてくだらないし、夢なんて言葉はまず言葉としてうつくしくない。
 かといってすれて現実という観念につかまるのもいやだ。
 となると、どこかへいくしかない。カナダへ、バリへ。うるわしのガンダーラへ。
 クラゲみたいに、浮かんでいたいよと、言いつのるたびにこころには風がふき、
 かといって気持ち次第でどこへいったのとも同じだとうそをつく宗教はもっと信じがたい。
 なんとでもいえるじゃないか。
 トリップ・イズ・ノット・トラヴェル。

 しかし、悩んでいるかのように文学を偽造するのは最低なので、
 とりあえず、まだ降りたことのない沿線の駅へ、友人を訪ねに行く。
 やつめ借りたかねを返そうとしないのだ。ひっでえ目にあわしてやる。と、炎天下をぶつぶつあるく。
 かくてひとりはどこかへ瞬く間に逐電し、ひとりは未曾有の追跡の幕をあけることになる。
 トムとジェリーに休息のときはない。


 まよなか、急に目がさめると兄がいた。にいさんと呼びかけた。
 それから、いわなければいけないことがあるような気がした。
 いつの間にかまた寝入って、それでもにいさんの気配はとどまっていた。
 軟らかいわらい声が聞こえていた。
 朝になって考えてみると、にいさんはわらっていたのではないように思えた。
 だいいち、わたしには兄などいないのに。
 猛暑の、中庭の花壇にいって、それから、やわらかい黒土をスコップですこし弄っていた。
 カツンとスコップがなにかかたいものに当たったのに気がついた。
 なんとなく、白昼の燦々とかがやくひかりのなかで、目がくらみ、まっくらになったようだった。
 なにか白いものがのぞけていた。


 電話はこわい。
 しばらくとまっているので安心だが、これもいつ復活するかわかりやしない。
 数年前から、たとえばAさんがとなりにいるのに、そのAさんから電話がかかってきたら恐いと思ったりしている。
 平行世界というのもこわい話で、しらぬまにうつされていても気がつかないじゃないか、と思ったりする。
 それでも変わらないなら構わないか、という問いは、たぶん、もっと怖ろしい。
 考えたくないなあ。


 海よりも奇妙なのはひとびとの愛だ。
 身を寄せ合うのに理由などないはずなのに、
 憎みあうためであるかのように言葉をかぶせていく、
 愛そのものなどあるはずもなく、ただ愛し合えばいいなどとはいい気な夢だが、
 なぜそんなにも偽装せずにはいられないのかと笑みを含むのは不真面目だからか、
 仮装されたケープのひだのなかにはきっと、
 逆上して空気の足りない初心者たちがあわてているにちがいない。

 ひとびとがつくりだす無数の愛の必然性についての伝説は、
 湖のそこにいくつも石版のようにふりつもり、
 巨大なみなそこの図書館をなしているだろう。
 なんという独創性の成果だろうか。
 ようは、いいわけなしには耐えられないということではないだろうか、
 自分が変わっていくということに。


 どんな物語も終わろうと焦りながら引き延ばす。
 気持ちいいはずだ。だが、ごまかしがあるはずだ。
 終わったからって何になる?


 何をいっていいか分からず、何をいっても無益で、
 でも何かいわずには耐えられないという場面をぬきに、
 文学を語って何になるのか。
 いや言葉でなにを語ってもイメージは語られた物には比肩できない。
 比肩できるのは言葉そのものだけだ。
 イメージを、事柄を、ものをつくること。


 炎天下をあるいてい水たまりを飛び越えた。その瞬間、水たまりに全世界が映り込んだ。
 その全世界はこの世界とそっくりでなにひとつ変わらないのに、完全でうつくしかった。
 けれど、気がつくと、もう、飛び越えてしまっていた。空しか映っていなかった。
 それからは雨あがりを待ちわびる。