早稲田忍法帖

 ここ数日、だるい日々が続いている。大まかな所では、睡眠不足と不健康な食事、それに運動不足が原因だろう。栄養、睡眠、運動の三つが不足している訳だ。これでよく人間の外形を保っていられるものだと自身の肉体ながら感服する。その分肥満が補って余り有ると云う声も友人から聞くが、私はそうは思わないのである。むしろその分が、精神にしわ寄せが来ているのだと思うと、ノイローゼが待ち遠しくさえある。
 私の下宿は、都内の大学講師の家の離れに、一階ひと部屋が二階だけあるもので、古風な竹の門をくぐり、縁側を横目に見て庭を通り、錆びた鉄の階段を昇らねばならない。秋になったので、枯れ葉が落ち朽ちて、絨毯のようで通るたびになにかしら感動的なものを受け取ってしまう。思えば、地面に直に歩くことのできるというのもノイローゼの対策としてはそう悪いものではあるまい。最近、柿がなっては、地面に落ちて腐っている。大家のお婆さんが竹で落として拾っているのもあるのだが、たいていは自然に熟して落ち、そのまま腐葉土に寄与するので、勿体ないが、いかんともしがたい。なにより哀しいのは、飛び石に落ちた柿だ。この柿にも似て、私は自分が原稿を書き散らしているのだ、ということを思うこともある。もう冬で、今庭に出れば柿など残っていないだろうが、私はまだサークルの約束の原稿も仕上げておらず、こうして宛のない原稿を打っているのだ。だいいち私はいつも前日頃に苦し紛れに徹夜して仕上げてしまうので、やっつけ仕事だと反省しない訳ではないのである。だが、いけないのだ。どうしても、いけない。なお悪いことは、それでもほとぼりが過ぎて読むとこれでよいのではないかと納得してしまうのである。それが他人の目で良いと認め得たことなのか、あるいは自作であるということと切り離せない納得であるのか、私には判別のしようがないので、それをよいことに私はぐうたらなのである。
 大家のお婆さんは元気なひとで、もう五十の坂はとうに越えて、六十幾つかであろうが、町内会長を努め、戦死なさったらしい亡夫の愚痴さえしたことがない。先日はヨーロッパに旅行に行かれて、お城の豪華さに参ったなどと、家賃を持参した私に話してくれたものである。どうやら、書道の師匠さんをなさっているらしいのだが、ついぞ生徒に教えている所を見ないので、多分、所謂筆耕というものをなさっているのではないかと私は思っているのである。それに引き換え講師の息子はまだ息子としての地位に甘んじ、家事にはいっさい触れず、学究として逸民として暮らしているようだ。私の見るところ、まるで居候めいている。これはかなり前のことであるが、お婆さんがいなかったので、代わりにこの息子が出て来たのだが、分からないので受け取れない、とのご返事であった。それでなくとも一週間ほどは定期的に遅らせる私であるから、申し訳ないとは思うのだが、いままで大家さんは文句をおっしゃったこともなく、引っ越したいと思うこともないではないのだが、そういう折りには申し訳なく、感謝されてならないのだ。
 とはいえ、かねさえあれば私はいますぐにでも引っ越したい。ただ単純に良い部屋に住みたいのだ。良い部屋に住むというのは、人格の問題である。私はよい人格になりたい。ひと部屋のアパートに住むというのは、同じ世界に住むということで、間仕切りがないということで、変化のないことだ。変化は人格の問題である。しかし私はかねの有ることを知らないのだ。それはたしかに入学のおりは大枚五十万の支度金を祖父より戴いたものだが、いまやアルバイトをたまにせねばならない有り様である。これでも奨学金があるので恵まれているほうでは有るが、働くというのは大変なことだ。私は先日バイトに初めて行った。もちろん一月足らず前ではあるが、手元にその名残は一切ない。ぜいたくした覚えもないのに、羽が生えてしまった。だから働くというのは大変なことのように思う。というのは、同じだけ使うのが、あまりに安易であるからだ。
 バイトの周旋をしてくれたのは大学の友人のTである。この幹事長でも有る少し勿体振ったお調子物は、私がサークルの部室に這入るなり、バイトをしないか、と持ちかけた。
 「金がいるだろう」
 「いらないことはないけど」
 「じゃやらないか」
 と押すので、私は持ち前の臆病さで、
 「そうだなあ、やってもいいだろうかなあ」
 というと、どうやら今日中に申し込めと催促で、なんだか使われているような不愉快を勝手に抱きながら、
 「本当か。明日でもよくないのかなあ」
 と抗うと、Tは無頓着に駄目だという。ドイツ人のように整った、しかしどこか滑稽みの有る、微笑が取り付いたように離れない顔で、Tは手続きを、木製としか思われない手を振って教えてくれた。
 「うんうん」
 と頷いて、私は大学の学生課に慌てて馳せ参じたのであった。しかし正直に云うと、何処か冒険的なわくわくがあったのも否定できないので、私はいっぱしのような顔をして、学生会館を出ると、正面の道路を亙り、構内の学生課の前の掲示板に立った。

 まったく私は禁治産者であり、あるいは社会不適合者と名指されても文句は云えない。勿論こういう言い草自体が文学者の裏返しの自尊心のようで紋切りで気が引けるのだが、実際そうなのでここはひとつ開き直っておくこととしよう。ぼくは駄目な奴だと一生に一時期は誰しも云ってみたくなるものである。
 私は一日目から一時間ほど遅刻したのである。幸い、その時間は私は休み時間の当番であったから大事には至らなかったのであるが、友人の周旋で、しかも友人は遅刻していないのに、かくも平然と、しかも一生の初めてのバイトで遅刻するとは、人間として欠ける所が絶対にあるに違いない。しかも私はちゃんと定額のバイト料金を貰っているのである。
 バイトの内容はこうであった。品川近郊のA町という場所の交差点に赴き、パイプ椅子に、二時間単位で、およそひとり八時間ほど座り、あの野鳥の会で有名なカウントする銀色のかしゃかしゃいう機械でもって、通過する車を車種によって三種に分け、記録するのである。曰く、大型車、普通車、バスである。いったいこの調査がどんな研究に資し、どこに提供されるのか、皆目私には見当がつかないのであるが、二日間私は、朝七時に行き、夕さり七時に上がりという仕事をしたのである。但し朝は本当は八時頃行ったような訳では有るのだが。
 最近、この同じS研究所の紹介で私はべつのアンケート回収のバイトをしてきた訳なのだが、どうもここの仕事は最近は早稲田の学生に片寄っているような気がする。そのときの用事で事務所に行ったときは、清潔なオフィスのなかに、コンピュータが数台とその配線のごちゃごちゃしているのが、あらわに目につき、快適そうに見えてひどくうらやましかったものだ。
 私は前日、早起きを志して早くに就寝した。「ぴあ」の地図を確認し、路線図を確認し、万端整えて眠りについたのである。遅刻せぬように、私は五時ごろに起きる計画でさえいたのだ。残念乍ら、しかし起きると、六時を回っていた。私の計算では、それでも間に合いそうな希望はあったのだが、如何せん山の手線の歩みがいつになくのろく、どうしようもないという訳だったのだった……

 たどり着くと、私はすぐさま公衆電話から電話を試みた。係の人に謝るためである。所が通じない。私は交差点の位置を知らない。危機である。そう認識すると、私は焦るとともに興奮して来た。私はいま危機にいる。すべては私の判断次第である。さあ、どうすべきか? 駅は殺風景な割に広く、人はまばらで、青く壁や屋根が塗ってあり、寒いながらじっとしていられずに、浮足立っていた私の心にすら、いまだに建設中であるような印象を与えた。私は待っているはずの監督官の姿を探した。階段のした、駅の出口の広場には、とめられた無数の自転車とともに、何人かの人間が通り過ぎる。そこに私の目に留まった人影か一つあった。携帯電話を持ったビジネスマン風の若いアンチャンである。余談では有るが、サラリーマンとビジネスマンはどう違うのだろうか。たしかに、ビジネスマンの方が上等で、サラリーマンは情けないイメージがある。多くの人はビジネスマンになりたいのだが、サラリーマンにいつのまにか変貌し、ミスター・チルドレンなどと云った歌手のポップスをカラオケで歌って憂さを晴らすことになるのだろう。かといって、ビジネスマンも、一歩間違えれば「島耕作」的な陳腐で愚劣な夢物語の登場人物になってしまう。にもかかわらず、日本人の大半はやはり勤め人であり、それをばかにするのは、ばかなことなのである。
 私はこの時の状況から見ても、どちらになるにせよ優等生にはほどとおく、ひどい無能な邪魔物になりかねない。それは「堕落」や、「落伍者」といった私小説的自尊心を呼び覚ますよりは、ただ単純に情けないのである。私は役に立ちたいのだ。それも実質的に役に立ちたいのだ。そうでなくて、私のためにいまこの瞬間も散財し迷惑している人達に、真剣に考えれば申し訳の立つはずもない。かつて私は家族に家族だから優遇されるのを自然に感じない。申し訳ないというより、ときおり、不思議な感覚さえある、と云って、だったらやめようか、とひどく感情を害した根本的な、きつい反撃を食らったことが有るが、そしてそのことを相手に云うのは確かに失礼なことだと最近は私も分かるようになったのだが、それでも、人の好意や親切が当然とも自然とも思えないのは、今でもかなりがところ、本当のことなのだ。私には価値がない! だから私は、褒められたり過分な親切を受けると、喜ぶよりさきに当惑し、あたふたし、お礼を心に病み、否定にこれ懸命に努め、自信過剰になりそうになる自分を全身全霊で押さえるのにひどく苦労し、その所為で消耗し、それで却って恩人を逆恨みまでするといった、逆上の限りにおちいってしまうのである。そしてそのことは、私が、しかし律義にお礼を返すということは意味しない。私はいいかげんな奴であり、決して恩に報いることに懸命ではない。私はひどく忘れっぽく、たしかに悩みはするが、悩み過ぎてたいていどうでもよくなってしまうし、だから私が褒められて困惑するのは、あまりに自己愛が強く臆病なために、自分のテリトリーに入られたり、自分の魂に触れられたりするのをいやがるからであるのに違いないのだ。私は善であれ悪であれ深い接触を恐れる、ひどいエゴイストであると、少なくともこの点に関しては思わずにはいられない。だからせめて私は実質的に役に立ちたいのだ。自己をそのことを通じて肯定したいのだ。
 しばらく階段のうえで、私は、そのビジネスマンに声を掛けるのをためらっていた。間違いであったら、恥ずかしかったからだ。この期に及んで生ぬるいが、私は、向こうが気づいてくれることを願いつつ、さりげなくそばを通り過ぎた。反応はなかった。彼は携帯で会話しながら、駅の横の小路に入って行く。私は思わずふらふらと彼を追いかけて歩いた。ビジネスマンは怪訝な顔で私を見る。彼は紺のスーツをりゅうと着こなし、平べったい黒いカバンを持ち、忙しそうな表情で、いかにも有能そうに見えた。朝の喧噪の兆しはすでに始まっており、私は自分が兄にこれから叱られる弟のような心持ちがした。
 しばらく私は茫然としていた。二律背反に陥って、困惑していたのだ。彼の歩いて行った小路の方に交差点が有ると仮定して行くか、それとも別の広い車道の方に行くか。しかし、交差点は駅に近いに違いないが、はたして宛もなく探して見つかるものだろうか、私は焦るよりも、帰る、という選択肢を脳裏によぎらせていた。そしてそのことがいかに不道徳なことかを考え、まずあのビジネスマンの歩いて行った方へ行った。小路はますます狭くなり、五十メートルほどあるいて、私はいや、むしろ本当の係の人がまた駅に来たかもしれない、という考えに襲われて、また駅に舞い戻った。
 しかしだれもいない。私はまた、さっきの選択に悩まされた。しかも今度は、そこに、ここで待つという選択が付け加わっていた。考えたあげく、今思うと、多分それが一番消極的で確実だからだろうが、私はそこで待つことにした。
 が、私は十分も持たなかった。ますます申し訳なさと焦燥はつのり、同時におなかがすいて来て、私は広い車道を、食べ物屋を捜しがてら、歩き始めた。本当に私は焦っていたのだろうか?
 そこで、おお、神に私は感謝したい。大袈裟だが、それに近いことを私は考えた。道の対岸の歩道を歩く姿が見覚えがあったのだ。それは、友人のTであった。このときばかりは私は純粋にありがたかった。そして、彼が神様のように見えた。しかしよく考えるとこのことはTの人格とはあまり関係がない。
 こうして私は一時間遅れで交差点にたどり着いたのである。世の中何とかなるものだ。

 交通量の調査自体は何事もなく進んだ。自動の車椅子が普通車に入るのかどうか悩んだくらいである。Tは私にパンをくれたが、私はあまり感謝の言葉を云わなかった。
 私は朝焼けがいかにうつくしいか、夜、車道脇で椅子に座っていると、いかに寒く、排気ガスが苦しいかを学んだ。よく考えると役に立たない知識ばかりだ。私は分当たりにバイト代を換算してみた。そうやって分割して考えてみると、ひどく空しい。だが、十二時間分であるからぜんたいでは結構なものだ。そう考えると得したような気がした。休み時間に、Tは金が欲しいというべつの学生に、真空車の仕事、などとひねくれた云い方で屎尿処理車の効率のバイトを紹介していた。Tも私も、実際にそうしたバイトをする気になる人間がいるということを、初めて眼前で目撃した訳だった。
 なんでもそれは、臭いが落ちるまで一週間は人前に出られないのだという。そのような隠棲は、バイト代を補って余りあるマイナスのようにも思えるのだが。
 そして私は、トイレを貸さないコンビニがいかに憎むべきであるかを学んだ。幸い、貸してくれるコンビニが近くにあったからよいようなものの、そうでなかったら我々は大変な不幸に見舞われていたのに違いないのだ。
 次の日、私はクッションとラジカセを持参した。ウォークマンなどというしゃれたものは持ち合わせていないので。その日の午後、私は貧血気味の状態に陥った。Tに心配を掛けたが、風邪気味のまま強行したのと、だいたい不健康な所為である。倒れたりといった大袈裟な状態にはならなかったが、熱っぽく、朦朧としていた。徹夜明けのようなもので、病気などというと大仰だが、人間としては二十パーセント程度しか発揮していなかった。しかし、心配がうざいあまり、私は思わずTに邪険にしてしまった。あとでどれだけ申し訳なく思ったことか。私は好意にまともに対応できないという、缺陷があるのだとしか思えない。

 ともかく、二万円は我が手中に落ちた! 喜びはあまり当座はなかった。疲労が意味もなく笑ってしまいそうな精神状態に陥れていたからだ。しかも、今、私の手中にはその二万は痕跡すらない。私は次の日一日だらだらと過ごし、回復に努めた。もしかすると、私はあれ以来ずっとだらだらしているようなものだ。むろん、その前はどうだったのだと云われそうだが。だが、後悔しているというのは間違いだろう。正しく云うと、もう、どう思ったのかあまり覚えていない。……
 バイトをしながら、Tと話したのだが−しかし、これではまるで追憶のようでよくない語り方だが−菊池寛の話からであった。いっそ、紋切り型の長い長い小説を書いてやろう、という話だったのだ。私は、たとえばこんなストーリーを話した。……
 青年がいる。むろん、若くナイーブな大学生である。あるとき、手紙がくる。高校の同級生からだ。中身は書いてない。あるいは、約束かなにかをほのめかしていてもいい。で、名前は覚えており記憶もある。何かがあったような記憶、しかし、決定的なところではぼんやりとなってしまう記憶だ。しかし、アルバムやなにかを調べても、その友人がいた痕跡はない。彼は過去を調べ始める。……
 自分さがし、という訳で、まあ彼は自分自身を発見するようなことになるのだろうが、思い返すと、ポール・オースターの「鍵のかかった部屋」という小説との類似性は抜き難い。なんだか村上春樹っぽくもあるような気がして、嫌でもあり、また、興味がありもして、こういう形で書くことについては、私としては、虚心ではいられないのかもしれない。彼は教養小説を書くのだと息巻いていたのだが、どうなっているのだろう。私は、云い捨てたばかりで、このような日記めいたものを、書いているに過ぎない……。

 私は今日、約束の原稿を脱稿した。原稿用紙で四十枚程度の小説だ。物語、ロマンが結末とする地点から、小説を書き接いだらどうなるだろうと考えて書いたものだが、よく書けたかどうかは分からない。どれだけ書けたのかも分からない。きっと目的の半分も達していないだろう。ただ、いまは書き終えたという喜びがあるばかりだ。それでも、Pの助言がなければ、中断していただろう。私は報いるすべがないことを感じているが、あまりに罪障感を振りかざすのはひっきょう、自分をいい子ちゃんにしたいだけの見苦しい行動だ。そしてそのことを書き記すのは、分かってやっているのだという、あの見苦しい知的スノビズム的な、自己弁護なのである。私は結局、この小説とも日記ともつかないもので、ずっと自分のことにかかずりあいすぎたのではないかと感じている。むしろ私は書くべきなのだ。書くことだけが私に何らかのものを与えてくれるのではないかと信じたい。少なくとも、書きたいという欲求が変に私を苦しめることだけからは救ってくれるはずだ。だが、書くことが何になるだろう。それは、それこそ勝手にやるべきことに過ぎない。私はそうすることで役に立つことができるのかと問い、そのことに、答えるにはあまりにも愚かすぎる。

 私の下宿では、蛍光灯がこの一週間一つ切れている。買って来ればいいのだが、まだ一つあるので忘れたままにしているのだ。それで私は、いまも、半分の明かりで、原稿を打ち続けている。生まれて初めて私小説めいたものを書いたことに、不思議な感覚がしながら。窓の外ははや暗くなり始めている。Uから、もうすぐ電話が鳴るだろう。昨日、行き違ったので、授業の話らしい。ただテレビもついていない室内には、冷蔵庫の作動音とヒーターの何かが回転するようなうなりが響いているだけで、かちゃかちゃキーをたたく音がはっきりと聞こえる。書きながら私は、クリスマスまでに、蛍光灯を買うことを決心した。
 雪が東京を覆い隠すのを待ち受けながら、私は片輪の電灯に照らされている……
 月がまるで、遠い大陸のように、惑星のように、さえざえとした湖のように見える、高山の眺めにいま私は思いを馳せる。
 冬は、あまりにも早く訪れてしまったような気がするのだ。そして私はあまりにも低い場所にいるような気がするのだ。

                         (了)