夢うつつのようにして、なにか音楽のようなものを、感じていた。
「ひとつ、……いいですか」
ぼくはそのひとに、おずおずと、尋ねた。
「ええ」
間をはずした問いだという自覚があったので、ぼくはそこでまた少し、躊躇った。
「……下の名は、なんと仰るんですか」
彼女は春のこぼれるような日のなかで、何処かまぶしそうな顔をした。
「どうなさったんです。急に」
塀の外を、誰かが通るのが聞こえた。小学生らしかった。
「知りたいんです」
向きになっていると思ったのか、彼女の顔に訝しげな表情がよぎった。
「……靖子といいますけど」
そうして靖子さんが笑みを含むと、風が庭に吹き込むのが見えるようだった。
何一つ、よい徴候などみつからないなかに、ぼくは、靖子さんの柔らかな笑みを、狂い咲きのさくらのうつくしさのようにみつめ、それに囚われた。
「いい、お名前ですね」
ふっと、漂う静けさにはかりがたい痛みを感じていた。
「ありふれた名ですわ」
彼女は、迷いを切り捨てるように呟いた。
その人、未亡人とぼくがその日、ふたりっきりになったのは全くの偶然だった。風のつよい日で二三日のうちには大風がやってくるだろうというテレビの予報だった。朝から、暇だったぼくは、庭に降りて、花壇のまわりを仕切る煉瓦のうえにすわりこんでからりと晴れ渡った空を見上げていた。
この庭は大家の家のもので、ぼくが借りている部屋はこの大家のいえの庭の隅に建てられた二階建て各階一部屋の別棟で、黒土が肥沃そうなこの庭でぼくはよく靴を乾かしたり、洗濯をしたりした。
風は小気味のいいほど庭木をいいようにゆさぶって、陽光は空の沈黙のようにあたりをみたし、ぼくが部屋で付けっぱなしにしているFMラジオの音の他にはめだった音もなく、ただぐらぐら揺さぶられる木々の羽音が鮮やかだった。
ぼんやりと髪の毛を風にまかせながら空を見ていると、足音がして、木戸があいた。急ぐような気にもなれずゆるやかに振り向くと、大家の娘である、未亡人だった。彼女はまだ二十歳かそこらなのだが、死別して実家であるこの大家の老婆の家に戻ってきていた。
洗濯物をかわかしに来たらしい彼女は、かるくぼくに会釈すると、そのまま縁側に洗濯物の籠を置いて、いち枚いち枚、干し始めた。この庭は、大家の家の縁側に面しているのだった。ぼくはその手並みを、馴れたものだなあと、感心しながら見ていると、その視線が気になったのか、彼女はふいと手を休めて声をかけてきた。
「縁側、座ります? そこ汚れるでしょう」
未亡人は、なにか昼間はべつの副業で出ているらしい大家にかわって、家事一般を取り仕切っているらしかった。ぼくが彼女の名前もしらないくせに、未亡人であるということだけ知っているのは、大家の老婆がいっこうに彼女を紹介してくれないかわりに、家賃を手渡しに大家の家に上がり込んだときに、出された茶菓をいただきながら、戸棚の写真をご主人ですかときくと、老婆が、ああ、この子の死んだ旦那さ、と応えたことからだった。
そのときにもぼくは少しこの老婆の人格の繊細さを疑った。ともかく、これまではぼくは昼間はほぼ休みもずっと学校に出ていたので、彼女と接触する機会はほとんどなかった。ぼくは無言でありがたく云われたとおり、お尻の泥を払ってから縁側に移動すると、息を吸い込んだ。なんとも云いようのない、土の匂いがとどく。肥沃な土は、じつにおいしそうに見える。ラジオはあいかわらず、曲名の分からない洋楽を、ひずんだ音で流し続けていた。
「戦争、やっぱり起きるんですかねえ」
「さあ。わたしはずっと家ですから」
どうも、未亡人のかわし方は軽やかで、とりつく島がなかった。ぼくは学校でのいつものくせで、誰もがいきなり多弁になるこの話題を無神経にいきなり持ち出したことをすこし後悔した。なぜだか分からないが間抜けになった気がした。
「なんだか、こういう日には、時間なんてずっと昔から経ってなんかないような気がします。上京してきたばかりのときも、ちょうどこんな日で、それで、なんとかやっていけそうな気がしたんですよ」
「この辺も開けてきたそうですけど、まだまだ穏やかかもしれませんね」
未亡人は垣根越しに吹き込んできた風に埃が運ばれたのか、瞬きを何回かまぶしそうにした。そういえば、こころなしか彼女は膚の色がいやに白い。家から出ないと云うのは本当かもしれなかった。
野良猫がどこかで声高に語尾をのばして鳴いた。喧嘩でもしているのだろうか。ぼくは郷里で飼っていた猫がよく喧嘩して傷を負っていたことを思い出した。
「そういえば風邪がはやってるみたいですね」
すると、未亡人は半ば上の空で、それだけにかすかに歌うように節をつけて云った。空から吹き込む風に紛れて聞き逃してしまいそうだった。ぼくは「王樣と私」のようなミュージカルのしあわせな空間に不意に立ち会ったような気がした。
「こんなふわふわした陽気には調子も崩れるのかしら」
ぼくはくしゃみをした。
「つい最近まで、真冬の寒さだったのに、おかしな話ですね」
もう一度、躯がびっくりしたように跳ねた。しかし、不快な感じではなかった。
「狂い咲きのひまわりが、そこの公園で盛りだったのは一月まえでしたけど」
紅梅の匂いの幻が、そのとき、ありありと漂って消えた。一瞬の幻臭だったが、異様に生々しいそれは、香りたかく、明らかに未亡人の言葉に触発されたものだった。未亡人は、物干しに余念がない。ぼくは仕方なく、うっかりとまた余計な話題をもちだし、話し始めてからその不穏当なことに気が付く。
「もう、上野の桜も満開でしょう。去年、花見に行ったときは大事で、結局、暢気に宴会という訳にも行かなくなりましたから、今年はその分もさわいでる筈です」
「屍の血を吸って、綺麗でしょうね」
ぎょっとして、未亡人の顔を見ると、気持ちのいい、空から吹き込んでくる速い風に身を任せて、ちょうど伸びをしているところだった。幻聴かとおもわれたほど、その言葉はすでに跡形もない。
玄関で、案内を乞う声がした。セールスマンや郵便屋のたぐいではなく、知り合いらしい声の表情である。おとないの声はたかく、しかし険はない。このあたりも、すこし、池袋の駅の方に出れば、もう、街宣車の騒音たかく、浮き足立たざるをえないというのに、横丁に一本入っただけのこの住宅街は奇妙にしずかで、迷路のような碁盤目の町並さえ、そうした外の争いを閉め出すための罠であるかのようにさえ見えた。
「小島さん、いらっしゃいますか」
返辞を待たず、枝折り戸から、庭をのぞき込んで在宅を確かめたのは、四十恰好の男で、町内会の委員らしく、未亡人をさしまねくとなにやらバインダーにはさんだ書類を渡して、伝言でもあるのかやや声を低くして念を押している。
「……でもそれは母が……」
「せやけど……今度はそちらさんが……」
ぼくはぼんやりとした空腹を感じ始めていた。
いつのまにかラジオの声は、緊迫しているが間延びした調子で開戦のニュースを告げていた。さっきまでながれていた音楽は止んでいて、ふざけた打ち込みの勇壮なメロディがエンドレスで流れていた。なんとなく、立ち上がって、ラジオのきこえてくる、二階の自分の部屋の方をながめた。背景の空には飛行機雲が見えた。
「長谷川さん」
振り返ると、未亡人は、手に一通の封筒をもっていた。
「学校は、いつからですか」
「ええ。実は、もう、学校は、よすことにしました」
「そうですか」
「なんだったんですか? 差し支えなければ」
「もとの夫のことで、出頭しないといけないらしくて。まえに一度よばれたときには母がつてを頼ってかばって下さったんですけど」
「じゃあ……上野の件で」
早朝で、上野公園にはふかい霧がおりていた。真っ白い曖昧さの中をあるいていくと、つぎつぎに席をとりにはやめに出てきている人々の寒さを我慢しながら、なにかに期待しているような姿があらわれてはきえた。
夢のような静かさのなかで、気が付くと制服を着た影がたくさん並んでいた。かれらは何かに飢えているようなストイックさで、彫像のように立ち並んでいた。
そして何処かで映画のように銃声がして、それからすべては必然のように運んだのだった。
それにしても、あれは本当に、暴動だったのだろうか。
ぼくは、それからまたこうして春がめぐるまでのことを殆ど忘れているかのようだった。
「すぐに帰れますわ」
小鳥の声が耳にあたらしく響いた。ふたたび紅梅の匂いがした。未亡人は柔らかく笑った。「気になさらないで」
それからぼくは彼女に、名前を訊いた。
ぼくはその名前を抱いて、春のゆるやかさを残酷さに取り替えるのだと思った。
どうにかして、この瞬間を、胸のなかにとどめて時間に奪わせまいと思った。
紅梅の匂いは、血の匂いを帯びていたのかも知れないとなぜか思いついた。
「今度、引っ越そうとおもうんです」
「でも、あなたが、お帰りになるまで、」
「お別れはそのときにしようとおもうんです」
「ですから、」
「待っていようとおもうんです」
靖子さんは黙って笑っているばかりだった。