ウィンターズ餘話


 そんなにも静かな夜はまれだった。朽ち落ちた雑居ビルはひかりを失い、街路に積まれた塵芥のかたわらを、襤褸を頭から被り、濡れたように遠いネオンを反射するアスファルトの路面に引きずって歩く少女の跫音だけがエリアに響く。降ってもいない雪が彼女のちいさな姿に透かして見える。まるでノイズのよう。まるで冷たさの象徴のよう。遠く、エリア外の外東京区から、眠らないシステムの残映が見捨てられた掃きだめのICをきらめかせる。襤褸切れにつつまれて少女リィ・ダウンビロウのあらわになっているのは異常に大きな赤い目だけ。それは火のようではなく、むしろステンドグラスの薔薇のよう。裡なる冷たい透き通った光源が彼女を突き動かしている。何処に行く宛てすらない。ただ死ぬべき機会を求めるだけ。生きていることを確信するために、彼女はすべてを忘れる。ウィンターズは氷−火のなかで最後の言葉を遺すもの。
 そんなにも静かな夜はまれだった。加速する都市のシステムの活動と計算の濁流の中で、自己の形が現存したことを刻み付けようと願うものたちですら、その夜だけは浮かび上がろうとする意識下のざわめきが予兆するものに脅えて祈りたいとさえ願った。祈るものとはいえば、彼らすべての定めとなった病のほかには奪われていたのだけれど。古き昔表通りだった街路を浮かんで通り抜けるのは場違いに真新しい飛行艇で、舷側にはただ一文字《都》とだけ。その重苦しい沈黙が秘められた害意を推定させるに十分なかたさ。前後四カ所の警告灯を息遣いのように瞬かせながら、隔離局の飛行艇は高度を下げる。突如巻き起こる風は塵芥を払い、ついでに幾人かの人影をも吹き払う。機械的正確さでドアが上に開き、音もなく一人の人影が廃棄される。落とされた男は痛みに耐えながら必死で飛行艇が去るのを待った。かれは何度目かのエリアからの脱出に失敗したのだ。だがかれの目に諦めはない。絶望的な希望がかれのなかで制御することもできない流れを作る。生きるための望みが目的のための望みにとってかわり、そのことをかれは意識もできない。
 全身に痛みが走る。迷走する神経電流は不快なノイズを制御系にもたらし、フィードバックはつかの間閉じたループを作る。外界の刺激は一切遮蔽され、エド・クラウンの意識はぼんやりと夢を見る。ピラミッドは見事なまでに真新しく白金の表をさらし、かがやきは無限遠点にまで放射状に伸びていた。乾いた砂の王国は時間の中から隆起し、バビロンの門を思わせる。姫君を助け損ねた王子はアステロイドベルトに凍結され、永遠の恋人を思いながら眠り続け、再演されたイメージの奔流がとりとめのない物語となって体験され、クラウンは至高の安らぎを思い出していた。システムは見事なホメオスタシスに達し、かれはもはや完全な自己充足のグノーシスの蛇のような自同律のループをなして幸福のうちに幽閉されるかと思われた。
 カスタネット大通りに出た途端に、横たわり無意味な筋肉反射にのたうつ男を見つけたとき、ダウンビロウはかつて暴動のときガソリンをかけられ火を放たれて踊りながら死んだ飼い犬を思い出した。まだ空は青く見え、天は閉ざされることもなかったころだった。もはやたえて渋滞することのない大通りの広大な空間にはまるでその跡を埋めようとするかのように粗大ゴミが積み重ねられ乾いたオブジェと化していた。ブラウン管の壊れたテレビは煉瓦のように幾層も積み重ねられ、クラウンの傍らまでその裾野は広がっていた。しずしずとアラビアン・ナイトの女性占い師のように仕草に思考を現すこともなく、ダウンビロウは歩き去ろうとしたが、どうしてもクラウンとテレビの山の間の隘路を擦り抜けなくては先に進めなかった。リィ・ダウンビロウが行く先を変えなかったのは偶然にすぎないが、あるいはすべての関係の網目は手の施しようもないほど込み合いもつれ合っており、行為の「行く末」はなおさら知りようもなく、そのような世界の構造の前では倫理を正当化する根拠を見失い、途方に暮れた意識はまるでみなし児のよう。それでもダウンビロウは途を選ばねばならず、クラウンはみずからの選びに委ねられ、ふと、エリアの意識はその不思議におののくかもしれない。近づくとクラウンの全身は黒く焼け焦げ、ただ弱々しくのたうつ動きだけが作動しつつある生命系の表現だった。
 立ち止まりダウンビロウはクラウンの体を見下ろした。
 「どいて」
 クラウンの意識はその声に収束し、訝しんだ。
 死につつある者を物として扱わない存在など奇矯すぎた。
 気掛かりを残して透明な視線を感じながら、荒れ狂う苦痛のインパルスの潮汐のなか、ふたたびかれは気を失った。

 聞いて……歌っているのは誰かしら。耳をすませば、それでも絶えることのない存在の歌が聞こえる……猥雑で早とちりで大袈裟で……まちがった情報処理を続けながら……途方もない適応力で……狂うことさえ辞さない存在たちの……悲しさの蔭もない歌が……。

 「よく生きてるね」
 なぜ脱出を試みるのかと問われてもおそらくクラウンは満足の行く返答はできなかっただろう。あいもかわらず手当もせずにただ一晩ずっとかれを凝視していたウィンターズらしい幼い少女がいかにも無関心そうにそういったときにかれが抱いたのも、そうした闇雲な衝動だった。
 「行けよ」
 ダウンビロウは無視して夜空と変わる事なく閉ざされたスモッグの天蓋を見た。クラウンはなんとか起き上がりあたりを見回した。垂れ込めた霧は深く、深海のようにライトとネオンだけが点滅していた。クラウンはいまだに少し離れてダウンビロウが見ているのを感じた。その姿は霧にもはやなかばかくれて影となっていたが、ただ赤い目だけがまざまざと見えるように想像された。かれはしばらく立ち止まって考えようとしたが、ウサギ症の隔離エリアでは何事も起こり得ると安易に片付けて、宿を探そうと歩きだす。霧のなかから幻のように人影が現れては消え、音も発しては消えた。ときおり掠めるレーザー銃の沈黙の光線にも無感動に命拾いしながら、かれはカスタネット大通りの端にある崩れた地下鉄への入り口に立った。振り返ると、まだダウンビロウはついてきていた。かれはその意図を計り兼ねながら階段を下りて行った。あれが、ウィンターズか…クラウンは思う…ウサギ症の感染者同士の性行為は片方の速やかな死をもたらす。あらかじめどちらかは分からないのだ。助かるまじないのような方法がいくつも伝えられているがそれが気休めなのは誰もが知っている。だが、時には幸運に憑かれた特別な遺伝子の持ち主がいて、三対七まで自分が助かる可能性の方が高い。不思議なことにその大半が女だ。だから彼女らは死の運び手として使われる。欲望と死の天秤に耐えられる者は少ない。とりわけ、死すべきウサギ症であれば。だが、彼女らは自分の死をつねに場に出して賭けているのだ。どうして、そんなことを好き好んでやる連中がいるのかは誰にも分からない。本人たちにも分からないのかもしれない。そしてなぜだかクラウンは少女がウィンターズだと確信している。

 見られながら、クラウンはふたたび脱出の計画を練った。今度は地下から行くつもりだった。旧東京区域の地下には地下鉄の路線が無造作に放棄してある。細かい線や下水管を使えば、出られる可能性もあるはずだった。ダウンビロウは最小限の言葉しか発しなかった。それもたいていは嘲りか短い論評だった。食べ物すら何処で何時食べているのかはっきりしなかった。ただ、ととのった仮面の向こうで見ているだけだった。クラウンの試みはダウンビロウが協力すれば成功するはずだった。そのことに気づいたクラウンはダウンビロウに頼み込んだ。
 ダウンビロウがその依頼をどう思ったかは定かではない。検問を静かに殺すにはウィンターズに勝る者はない。ただ、ダウンビロウはクラウンが脱出に成功することで間違いなく破滅することを知っていた。内側の狂った論理は外側では論評にもされずに轢きつぶされるだけ。かれらには理解すらできないに違いない。出ることにクラウンが負わせたもののことは。
 ダウンビロウはこくんとやがて頷いた。

 バイオリン大通りを歩きながら、ダウンビロウは途の隅に積み重ねられた死体の一つが、彼女を見ようとしたのを感じた。沈黙の人形たちは魂のない目をひからせて通りを睥睨するのだけれど。振り向いたとき、すでにそれは死んでいた。道化はもはや踊らない。立ち止まりもせず、彼女は襤褸ぎれに身を包み、誰もいない途を、地下鉄への入り口に向けて歩いていた。そこにしか花は生えていなかったから。そんなにも静かな夜はまれで、残酷さがふさわしい在り方のように思え、がらんどうの窓ガラスのない、穴を穿たれたような暗いビルを見上げた。
 
 THERE IS NO STARS.