ゼノンと雪崩
短い文章というのは繋がらないのではないかという感触がする。他の文章に繋がらない、というのは、つまり展開しないという意味だ。展開す
る、というのは、ぐるぐるにまきこまれたぜんまいみたいなものが、ほどけて引き出されてくる、しかし別に始点があるわけではないので展開がどこかで切れる
必要があるわけではない、というイメージだ。繋がらない個々の文というのは、反復しないというふうにもいえる。繰り返すというのは、繰り延べるということ
で、つまり糸巻きから糸が引き出されるということだ。他の文に垂直に継続しない、そういう間道を断たれていると、勢い文は自分の尻尾を食べてしまう。変に
自己満足してしまう。バリエーションになってしまって、終えたところからはじめるのではなく、またはじめたところからはじめなくてはならなくなる。
継続する=反復する、前転する、でんぐりがえるためには、バランスを崩すこと、跳ぶこと、逆さまになること、忘れることなどが必要だ。足場を
崩さなければならないということで、ザムザやドン・キホーテのように別の人になることが必要だ。別の人ならば自分がまえ書いたことに刺激を受けることがで
きるが、自分で自分を刺激することはできないか、とてもむずかしい。他人の振りをしてもたいていその他人はもう前の自分が前に真似したひとだから効果がな
い。
小説とも詩ともつかない「感覚的な」繊細さと緻密さには足がない。という意味は自分で自分を阻止するというか、イメージとしての感覚は感覚を
阻害するものだから、向こう側にいけなくなる。感覚のイメージは感覚的なものではないから、じかにふれる邪魔になる。形式、というのはつまり骨組みが必要
なので、ドミノ倒し、或る帰還不能な点というのがあって(シェルタリング・スカイ)、手がつけられなくなる。それを例外ではなく、内的な常態にする。ブ
ロック化する必要というのは、つまり回転させるためなので、一様な微細な砂はミクロな目で見ると単調な動きしかしない。ブロック化した場合、マクロにはカ
ンタンな動きしかしていないようだけれど、もう戻ることのできない螺旋雪崩を起こす。瓶詰めの小宇宙はよくできた世界の写しのようでも、ひとつひとつが完
結した小宇宙であるということは貧しい。かといって瓶に穴があいて砂が漏れているだけでは鑑賞にたえるだけだ。
短い文が繋がらないから文の思想、イメージ、感覚といった想、たちが無闇に接触したりもめたりしつつ交渉だけはしないということになる。想が
孤立しているから実が孤立するのではなくて、実は孤立した想の場合と、反復する想の場合ではそもそも指すものが違う。想が尻尾を咥えることによって、ドー
ナツができるが、このまるがその場合の実であり、ところが反復し継続する想の場合には実というふうに呼ばれるのは想と想の繋がりおよび断絶、つまり隔ての
ことだ。実際のところ、繋がらない文の想は文の中心にあり、繋がる文の想は端っこにある。書き出しと結末はハシであるほかなく、そこででんぐり返しをする
ということは、ドアの隙間からは他界のひかりが漏れているということもおきたりする。
どったんばったんと曲馬団的にしか前に進まないのだから見通しがいいはずはない。いまやマクロとミクロしかスケールを持っていないというの
は、運動がゼノンの逆説のようにできなくなっているからだ。不連続移動は運動ではないし、運動がなければ時間もない。マクロというのは上から見た二次元の
関係だ。ミクロというのは横を見る二次元の関係だ。三次元というのは本当はもうひとつの軸なんてものではなくて運動のことである。動くから立体がある。動
かなければ、二つの平面が組みあわされているだけだ。組み合わされた二つの二次元と三次元は同じではない。つまり、マクロとミクロの中間の、運動の、動き
の、三次元の場がかけている。マクロは見上げたり見下ろしたりする軸だから、そこに住むのは昇降するイメージ、シンボルだ。ミクロは他人の背中を見ること
だ。不連続にしか動かない場合、位置は上との関係だけで決まる。横という位置は間接的にしか決まらない。奇妙なことに、横というのはイメージとして近く、
作用として遠い。
手紙を書く。手紙がすぐ届く。だから二次元しか持たない。つまり別の形式でいうとそういうことで、隣に手紙を出す場合でも、郵便局を経由する
ときは、それはイメージとして近く、作用として遠い。ぼくは郵便局に話し掛け、郵便局が相手に話す。かのようだ。だから郵便局はイメージであり、シンボル
の軸にある。しかしここに運動はない。つまり手紙はそのとき(もっとも実際の手紙はこの例から逸脱するから、むしろ電話のことを持ち出すべきだったろう
か)、移されるだけで動かない。移されるというより映される。閉じられた文は一通一通が何かのイメージ、シンボルを訴えているけれど、それは言い換えれば
イメージやシンボル、意図によってしかあて先に届かないし、あて先が毎回違うといっても何故か退屈なのは、同じ消印が押してあるからだ。
運動というのは大雑把に言ってしまえば書き損じる、写し間違えるということだ。移すのは成功するか失敗するかだが、写すのならそこには無数の
段階がある。三次元とは斜めに飛ぶということで、というよりも方向が途中で変わりうるということが三次元ということなのだ。立体とはバランスを崩すという
ことだ。動きは雪崩によってのみ達成される。マクロとミクロしか存在しないとき、当然ながら、ふたつをつなげるものが分からないので途方にくれる。こうし
て、無数の穴ぼこで隣の声を聞きながら隣と会うことはできないというげんじつがあらわれる。マクロはミクロをたくさん足し合わせることでできあがるのでは
ない。マクロとミクロは二つの平面の合成としてできあがる。しかしマクロとミクロを合成しても動くことはできない。移動することができるだけだ。
文が文に繋がっていくというのは逆さまになること、跳ぶこと、忘れること、バランスを崩すこと、他人になることだ。ぼくはぼくの失敗を書くこ
とができる。というよりも書くという失敗をすることができる。するとみっともなく文が本来の場所からずれて他人の場所まで倒れこむ。そうするとドミノ倒し
がはじめて始まることができる。閉じることの失敗と倒れることの失敗は違う。閉じることの失敗はつまり、閉じようとしてばらばらな漏れる穴をあけてしまう
というようなことだ。それは鑑賞に堪えたり、あるいは未熟ゆえにつぼの中身を満たせなかったりする。しかしどちらにせよそれは繰り返すこと、繰り延べるこ
と、ひきだすこととは失敗成功以前に違う。
文が文へと倒れこみ、そしてしかもそのブロックたちがひとつの小説でもあるというのはこれ以上ないくらい笑劇的、曲馬団的なことで、ブロック
が崩れるときと砂が崩れるときの主な違いは砂が崩れても混乱しないがブロックが崩れると混乱するということだ。砂は一様な状態になろうとして崩れる。ブ
ロックは別のアンバランスな状態へと崩れる。物語がブロックであるのは起承転結というのはブロックの四辺、パッケージ、枠だからだ。小説の文には方向が
あってブロックとは違うように見えるけれど、けっきょくブロックの中の、あるいはブロックをつくる砂はつねにどちらかになだれていく。しかし、ブロックそ
のものには方向も順序もない。だからこそプロットという形式が可能なのであり、組み合わせの自由さはそのある種の平等さに由来している。といっても慈悲深
くもなければ平穏でもない平等さだが。
時間とはだから克服されることによってはじめて本当の意味で存在を開始するようなものだ。時間とは雪崩であり壊れのことなのだが、しかしそれ
はブロック化されることでいったんは克服されなければならない。小説は全身で時間を克服しようとし、そのことで時間を存在させようとする。