提言騒動だとかいうものがあるらしいです
著作権関係のはなしに興味があることもありとはいいつつ、この件そのものについてはたいした言及はしない。
いつも、剽窃が問題視されるとき、書く人として心から思うのは模倣されることがなぜ嫌なのかさっぱりわからねえ、ということだ。
ぼくが剽窃されることで、そこから得ていた利益を奪われる、という話ならわかる。
また、ぼくのほうが剽窃したのだろうと思われるのが嫌だ、というのもわかる。
この二点に関しては確かに、大いに問題があると僕は思ってるし、「そういう意味では」剽窃はいけない。
剽窃に過ぎない作品は作者の「恥」なだけであって、「罪」ではないとぼくは思っている。自分のほうが原著作者であることが確認され、そのうえで、しかもその剽窃版が出回ることで原版の売上が落ちたというような既得権にかかわる問題がない場合、ぼくは実際のところ、剽窃されたといって怒っている人は、なにを問題として、何を非難しているのか、まるでわからない。
もちろん、ある意味でキャラクターものなんかで、特定のキャラクターのイメージを保持したいという気持ち、はあるだろう。パロディが横行したり、パロディのほうが定着するのはいやだ、ということ、それはわからないではないが、ものかきならそれははっきりいって受容すべきリスクだと僕は思う。自分の言葉がさまざまに解釈され、せっかくつくりあげたものがまるで違うものとなってリターンされひろまってしまう。それは言葉の本来の性質で、もちろんそれを放置しなければならないというのではなく、権利や罪や罰といった概念を持ち出さずに、言葉の力や作品の質で対峙していくべきことだ、ということである。
粗悪のコピーがでまわっていても、剽窃された作品のほうがすぐれているなら、コピーはたんに原版の宣伝になるだけだ。逆に剽窃のほうがすぐれているなら、原版などわすれさられるだろう。それは基本的には正しいことだとわたしはおもう。剽窃であるかどうかは、作品の内在的価値とは関係ない。関係あるのは作者の才能とだけだ。
だいいちひろい意味で剽窃せずにものを書くことなどできない。ひとが書くということは、受け取った言葉をたくわえて熟成させ、編集し、投げ返すことだから、ある意味でオリジンはすべて外部にある。
他人が本来の実力以上の評価を、しかも自分の努力の成果によってうけているのは不快だ、というのは感情としてあるかもしれないが、わたしにはこの感情は正当なものとは思わない。わたしはわたしの作品のために努力したので、その努力は作品によって報われている。他人がその労苦の成果にただのりしようと、そのことによってわたしは少しも損をしていない。ならば何の文句をいう筋合いがあるだろうか。ただ黙って、作者の実力への評価を再考すればいい。そしてそれが本当は一番厳しい制裁のはずなのである。
以上のことは現行の著作権法で保護されている権利を侵害していいと主張しているわけではない。法律論としてはそういうことをさせない権利がある。だからそれを行使すべきであるし侵害すべきではない。
ただ、ぼくは、他者を、剽窃によって、文学的、道徳的に責める気はないし、当事者に代わって積極的に法的に責める気もない、ということである。
Comment by jouno — 2003/03/08 @ 2003/03/08 08:43 JST