Private Annihilation:90年代の外れに 1


14才

 14才というのは、何か特殊な年齢なのだろうか。もしそうだとすれば、平成元年に14才だった私には、天皇の死やソ連邦の崩壊、消費税のスタート、天安門事件、そして何より、宮崎勤による連続幼女暴行事件というそれぞれにただごとではない出来事たちはどのように映ったのだろうか。
 セクハラとフリーターという言葉が流布したのもこの年だと手元の本には書かれている。
 この二つの言葉は、わたしのやがてやってくる青年期の背景として、気味悪いほど大きなものとなった。今年、フリーターはますます増加し、就職モラトリアムの人々や早期退職者は社会問題にまでなりつつある。そして、この問題とされている年代が、まさにわたしやその前後の世代なのだ。不況は、男女の雇用機会の実質的不平等を激化させている。
 宮崎勤と幼女とアニメ、ホラービデオという三題噺は、神戸の少年やアメリカのトレンチコートマフィア、日々、至る所で感じる既視感の源泉にある。
 その年、わたしは14才だった。
 わたしは信じていた多くのものが突然壊れるのを目にし、しかもそれによって結局何も変わらず、むしろゆっくりと日常が腐食していくのを目撃したのだ。
 当時、わたしは中学二年生で、そういえば、これも偶然だが、小説というものを書き始めた。平井和正の多分に毒素を含んだ影響と新井素子のひやりとするようなニヒリズムにさらされながら、田中芳樹を通じてやや通俗的ながら批判的なものと戯作的なもののくみあわせにもひかれていた。オカルトはオタク文化とつよい親近性を見せながら、「前世」「ハルマゲドン」という言葉にリアリティを与えていた。「ぼくの地球を守って」が連載されていて、前世の戦士という言葉がそろそろ問題になってきていた。すべて、囲い込まれた領域での言葉や幻想のなかでのイメージだけの暴力や混乱や破壊傾向に過ぎなかったが、やがて宗教団体という形で、あるいは少年犯罪という形で暴力は具体化していく。
 これも前後するが、この年に、オウム真理教が宗教法人に認可された。「連合」もこの年に発足した。つまり労働組合がほとんど左と手を切った。文学は、ばななと春樹の年だった。感性という言葉がなにより重大視されていた。テレビではいか天が放送されていた。
 わたしは、自分より下の世代と違って、観念や言葉や表現やイメージが、現実と切り離された空虚なものだと考えたり、現実は個人にはいかんともしがたいものだという感覚的なあきらめから始めることは出来ない。かといって、具体的な「運動」の言葉の「粗さ」や人間性との乖離からも目を背けられない。このままではいけないはずだという漠然とした観念を躯の根底にもっていながら、しかし、政治的な形での変更でなにがかわるのかという疑いを、持ってしまっている。
 日常はやはり危機としてあるしかないのだとおもう。そのなかでひとつの悲鳴として、どうじに挨拶として、そして、希望への予感として、言葉はあるのだとおもう。生きていくという仕方なさの中にある何かを。
 14才、わたしは必死で言葉というものを探す。まわりは現実化したフィクションでいっぱいだった。ハウステンボスはもはやディズニーランドのように幻想の具体化ではなかった。現実としての幻想だった。つまりディズニーランドの幻想は幻想としてうけとられるにすぎないから偽物だし、使用できない。けれど、ハウステンボスの幻想は、実際に都市として機能する。もう、これは偽物ではないのだ。ディズニーランドには楽屋裏があるけれど、ハウステンボスには楽屋裏はない。現実はフィクションによって表現されるだけではなくて、フィクションによってつくりかえられてしまった。そのとき、フィクションはただのいつわりじゃない。
 考えてみると、そのとき、わたしが書き始めたのは、やはり抵抗だったのだとおもう。ただし、自分自身のための、個人的な防衛行為だったのだろう。そして同時に、迂遠なコミュニケーション行為だった。
 それにしても、何ということだろう。いまや、誰ひとり想像力という言葉を信用していない。リアリティばかりが重視される。けれど想像力とはもっと簡単なことではないだろうか。個人が、現実からはずれてしまうことで見てしまう幻想や幻覚的なヴィジョンと、他者と共有するための努力こそが想像力ということではないだろうか。ヴィジョンはイメージと結びつかなくては錯乱でしかない。
 14才は、たしかに誰よりも呪術的な心性をいきているのだとおもう。それは、中学生とは、何もしていない存在だからだ。何もできないというふうに実感することはまだできない。何も許されていない。何もしていないことを強いられる。だから部活をしたり、意味のないこと、ちょうどただイメージとしてしか意味のない空虚な、シミュレーションに熱中する。だから、過激派なのだ。意識せずに。
 そう、ぼくはそのときちょうど生徒会の下っ端の委員だったりした。校則にひどく反発していた。校内誌に反対のエッセイを書いたりした。人権集会で人権をたてにとって校則反対の発表をしたりした。中学生はおろかで、言葉でなにかすることがそのまま無媒介で現実を変えることだと思っていたりする。
 天皇の死は、自粛の圧力という形でわたしに、天皇というのは名目的な存在ではなく、強力な権力だということを実感させた。ぼくは生理的に不愉快だった。うちつづく革命とよばれたただの体制崩壊はつよい希望とその直後のひどいあとあじのわるい幻滅を与えた。不愉快で仕方がなかった。名前がかわっただけじゃないか。
 そして、それからの数年は異様に空虚で瞬く間に過ぎた。
 何故だろうか?
 怖くて仕方がなかった。もしかすると、きゅうにぼくは高校生になることで救われてしまったのだ。
 そうだ。たしかにわたしはこのころ根拠もなくなにもかもが滅びるだろうと確信していた。
 なにがそうなのかわからなかったけれど、「はやくしないとておくれになる」、そう感じていた。
 いま終わろうとしている、そしてまだ終わっていない90年代の外れで、滅亡の予感はなくただ、
 このままでいくはずはない、きっと現在をのどかな時代として振り返るときがくる、
 そんな感覚が離れない。それは変容の予感だ。しかも、決して黙示は楽天的ではない。
 TMNではないが、このDecadeは何だったのだろう。

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 //1999/10/18//