《波紋》

 波紋が拡がる。ひかりに溢れたその中庭は閉ざされてはいない。十字路の交点、なかば閉ざされ、半ば開かれた、奇妙な風の吹き抜ける場所。ひかりのさざなみ、熱の波紋、そこで舌が震え、声帯が空に届く。紙切れがそこに舞いながら、空間を象嵌していく。咲き乱れ、無数の線から構成された裂開からは漏れ出す、透明な闇の要素たち。ひとつの悲劇がそこで像を構成していく。だからこそ、像はギリシア的な静穏となだらかな距離をとりながら、黙劇を強いる。強いられた黙劇と歌ははじめはあたかも関わりを持たないように、波紋と波紋の関係性によって浸透しながら、踊りつつあふれる。その場所からもはやひとつの諦めを孕みながらも、切り裂かれた回帰する透明な闇の要素が標しという標しを捕獲して、再び波紋を享受する。

 ……ひとつの、物語論。

01/02/05


 《メモ=ランダム》

 真剣を朝礼に持ち出して生徒に突きつけておまえらもっと真剣にやれ、といった校長がいたそうである。男塾(ぼくはおもうのだが、こういう単語を無造作に使用して、通用しない相手への考慮がない、というのが最近よくみられる文章の特徴のような気がする。つまり、何処かで、読者を世代的に限定しているのである。いけすかない話だ。因みに「男塾」というのは軍国主義的な塾が現代にあったら、という設定の十年くらいまえのギャグマンガである。)みたいな話であるが、しかしこれがおやじギャグだったのかそれとも無意識なのか、気にはなるところだ。しかし、どうせならピストルのほうが怖いと思うのだが、そのへん、旧弊である。よくアメリカ映画で、拳法や剣の達人が、さんざパフォーマンスしたあとに、西洋人に銃であっさりやられるシーンを見るたびに、痛快でならない。強さというのは勝つということで、武器やその他の取りうる手段を度外視しての限定条件での強さなどあるはずがない、という思想の持ち主だからである。勿論、ということは強さというのは実は絶対的な量の問題ではなくて、あくまでも相手とのカップリングとのかねあいの質的な問題だということは明らかで、だからやはり強さというのは勝つという出来事からの抽象なのである。

 政治に明快さを求めるというのはいい傾向ではない。政治は象徴的な行為でも演劇でもないからだ。しかしもっと腹が立つのはそういう大衆的傾向を侮蔑してエリート的なものいいをして悦に浸る傾向が他方で発達しているからで、俗論を否定する少数派であるからといってそれが理由で俗論でなくなるわけではないというのはあたりまえのことだ。とくに、ウェブ日記でよく見られるパターンは朝日新聞的なメディアの軽薄な正義を批判して、それで何か正しいことを云った気になる「社会批判」の言説であるけれど、そもそも朝日新聞的な正義の軽薄さを批判することなど、それ自体どうみたって紋切り型以外の何ものでもないということは、少し内省してみれば分かることだ。朝日新聞的な正義の軽薄さを産経新聞的な道徳の軽薄さで批判したところで、この二者択一がそもそも下らない。独創的でもない「一家言」を持つ人たちが多すぎる。一家言はつねにその論理ではなく、通用する常識への反撥とそのむしろ論理の無さが醸し出す意味ありげなもやに、その説得力を負っている。まず常識を想定し、それを批判する。ここまではいい。そしてそれ故に、対称的な別の意見を、それ自体としての正当化ぬきに、あれが間違いだからこれは正しいというふうに正当化する。どちらも間違っているという想定や、その対比がおかしいという可能性が隠蔽されているのである。

 ところで、おやじギャグと駄洒落すなわち地口一般との違いって何なのだろう。このへん、じつはみんな、いい加減につかっているような気がする。思うに、おやじギャグというのは冗談の形式の分類ではない。冗談の形式としては、あれは地口である。それを使用するモードがおやじギャグなのである。ではこの語用論的なモードというのは、どういうところなのだろうか。第一に、それが、共感的な雰囲気を前提にしていること、つまり、ほらね、おもしろいでしょ、というメッセージが含意されているということ、だからむしろ、云った後のあの笑い待ちの間が分類的に重要なのである。だから、おもしろいから冗談であるというのではなく、冗談に分類されるからおもしろいのだ、という倒錯が働いている。そこに押しつけがましさの印象が生まれる。つまりおやじギャグというのは本来は反制度的な「笑い」を制度化するのであり、だから嫌われるのである。

 自分の使っている言葉の通用範囲に対して意識的であるということがきわめてたいせつなことなのではないか、という気がしている。基本的にアイロニーや韜晦の有効性をわたしは信じていないのだ。アイロニーは閉鎖空間を前提にしており、それゆえに本質的な豊穣さと生産性を欠いている。通じない言葉を、あいてがわるいと偉そうにそっくりかえって何になるというのか、知識の範囲と種類の差でしかないものを、程度の差のようにいうことは愚かしいとしかいいようがない。まして、世界のありようについての知識ならまだ知識の程度といういいかたも、或る程度は、限定付きでもいえるのかもしれないが、単なる言葉の定義についての知識、つまり或る分野での専門用語や内部事情をしらないということを軽蔑するということは、それ自体、軽蔑に値する。

 大衆化によって事物が平均化され、凡庸になってしまうことに苛立ち、分かり易いという価値しか認めない傲慢さを批判するのは分かるが、それに対置するに別のムラ根性であるエリート主義をもってするのは単に悲惨でしかない。相手が理解せざるを得ない明晰さを言葉に込めるべきなのであって、理解させたい欲望がこちらにあるかぎりは、こちらが努力すべきである。立証責任をいかなる弁論者も負っているのであり、そのことをかなしんだり悔やんだり無視したりするのは傲岸だろう。相手が自分と同じ知識と言語の共同性をもっていないからといって怒ることほど、醜悪なことはない。まして、相手に通用しない皮肉というのは、単に自己満足でしかないではないか。皮肉が皮肉として効果を持つとすれば(もっともそもそも効果を持ったとしても愚劣だが)、それは相手が本当のメッセージを理解した限りであって、このようなときの理解できない相手への軽蔑ほど浅はかなものはない。そして、理解させたいという欲望をもっていない、あるいは、狭い相手にしか向けられていないくせに理解できない相手が読むことを予想の内にいれているような文章は、ただ、みずからを高く置きたいと欲望しているのだ。

 イロニーは思うに、へんに道徳的なのだ。

01/02/02


 《そして一瞬の、ドトール》

 ドトールというのは綴りから見る限り、娘という意味に違いない。で、何だ、娘。って。珈琲「娘」ってなんかいかがわしくないか、そんなどうでもいいことを多西が言い出すのは決まって昼休みの屋上で、さあ、もうパンも食べたしそろそろ教室に帰ろうか、という頃合いだった。どうみてもまだここから去りたくないという気持ちの表れで言い出しているのにすぎないのだから、放っておけばいいのだけれど、こっちとしても焦りながらつい聞き入ってしまうような変な魅力がかれの言いぐさにはあった。ぼくらの学校が建っている地域は昔から雨の降らないことで有名で、いつもうららかな陽光が屋上のものぐさどもを甘やかすのだった。何もおいていない、恐らくは工事の人以外が登ることを想定していないこの屋上はまったく廃墟のようで、都会の学校の屋上と違って運動施設の類も何もない。

 「きのうドトールで北村見たぜ」

 多西は呼吸が一瞬出来なくなったような素振りをした。こわばり始めた表情を無理に冷静に作って、知らぬ振りをしている。本当は、だれといたのか、一人だったのか訊きたいに決まっている。急に何だかばかばかしくなって、何でこんなことを言い出したのか後悔した。実際には北村は三好と田川と健一と由利子と一緒にいたのだから、かなり微妙というか取りあえず心配するようなことではない。もっとも多西のことだからそれだけでもすぐ不安に巻き込まれるに決まっているが、そうした他人の感情の波瀾の原因になったり巻き込まれたりするのはまっぴらだった。

 ポケットに手を入れてまさぐると何かが手に触ったので取り出した。太陽にすかしてみると、赤い耀くような半透明の石で、硝子ではなくたしかに磨かれたような鋭角の小さな石だった。見覚えがなかったのでしばらくためつすがめつ眺めていると、多西が急に立ち上がって、それまでもたれかかっていた屋上の端の高くなった壁のほうに向き直り、そこから眼下の運動場を見て、いっぱいいるな、人間ってさ。とため息をついた。

 なんだよ、グリーンピース気取りか? というと、多西はまた座り込んで、違うよ、ただ、面倒だな、と思ってさ。といった。

 階段をかけあがってくる足音がして、誰かと思うと、出てきたのは湯夜梓の退屈そうな顔つきで、二人してすわりこんでぼんやりとしているのを見て呆れたのか、ことさらにゆっくりとした動作で歩み寄り、探してたわよ、金沢くん、といった。

 「ほっとけよ。あいつ、なんか勘違いしてるんだ」

 梓は横に並んで座り込むと、何か納得したようにうなずいて、

 「午後、サボろうか」

 といった。すると、多西は梓に、いいのかよ、井沙羅のやつお前のことひいきしてたじゃん、というと、梓は、それには直接に答えないで、屋上のはずれにおいてあるガラス瓶を指さした。

 「なに、あれ」

 ああ、と多西と顔を見合わせてから、

 先週の飛び降りのだよ、

 と云った。そのタイミングで三人、期せずして一緒に、大きな欠伸をした。

 相変わらず、空は、青い。

01/01/31


 《他者の死を語ることへの躊躇い》

 大前提として、他者の美徳を賞賛するという行為は、他者に美徳を強いる行為でもあるということを知っていて欲しい。ましてそれが自分には適用されず、適用する気もない美徳であればなおさらである。だから、他者の自己犠牲を美徳として賞賛する行為は、その自己犠牲のたとえ間接的にであれ、受益者から為されるならば、何ら美徳ではない。醜悪の極みだ。

 我々の時代、共通善が仮想的に確立され、そのくせ、細かい差異については、奇妙に非妥協的な無数のコミュニティに分裂する時代、共通善への反駁は論議の余地無く対話の対象から排除され、他方ではそうした一般的合意のもとでの、個別的差異への、非両立的な選択は強請され、それが多様性であると云われる。

 共通善を問い直す行為は必然的にその前提にたった上での、既成のセットのうちのどれを選ぶかという問いに答えることを不可能にする。そのセットの分け方がおかしいと考えている人間に、どれを選ぶか選択を示さないのは政治的、道徳的に無責任だ、という非難を浴びせるのが、きわめて現在的な盲目の固有形態である。ひとは多くの場合、自分がたてた問いについて自分で選んだ答えに反対されることには我慢できるし、偽善的にむしろ議論はいいことだといいもする。しかし、その問いの立て方そのものを批判されることには耐えられない。

 共通善と最善とはつねにずれている。最善は合理によって探求されるものであり、それに終わりはない。共通善はそれになるたけ近くあろうとするべき、共通了解にすぎない。或る議会を考えよう。そこでさまざまな議論がなされ、その出席者たちにとって考え得る最善の結論が共有されたとしよう。これが共通善である。しかし共通善は、出席者の能力によって規定される限界と合意が理性的であるかどうかという限界を持っているから、たとえ後者を度外視してもその会議で出しうる最善が、現実の最善ではないことはつねにあるし、たいていはそうである。事実として間違っていることが、しかしそこで話し合われ出された意見の中ではいちばんましであったがために選ばれるということはつねに起きる。だから本来、共通善はつねに合理によって批判的に検証され続けなければならない。合理的な理由がなければ共通善に従わざるを得ないしその為に共通善があるのだが、共通善を批判するべき合理的理由があるのならつねにその合理に従うべきである。この論理的順序は絶対であるべきだ。

 ト、ここまで書いたところで或るニュウスが飛び込んできたので暫くそれについて書く。

 椎名林檎さんが、入籍して、妊娠して五ヶ月だということだ。 アナウンスコメント。余談ではあるけど、このひとの文章は奇妙な緊張感とユウモアを帯びていて、実にまっとうで、美しい。この事の次第について、俗論が、やはり腰掛けだったのだとか、本物ではなかったのだとか、つまり根は安定を望む小市民に過ぎなかったので前衛の身振りは俗悪な戦略に過ぎなかったのだという議論をうれしがってもてはやすだろうと思う。彼女の売り出し方の前衛やアングラの身振りをそれとして真に受けることに意味があろうとはしかしぼくには思えない。だからといってそれを事務所のスタッフの能力で彼女に属さないというのも妄想的な推測としか思われない。彼女は作品に於いて結果を出していれば、二次的な売り方についてはどれだけ俗悪であってもサービスしたいと思っているに過ぎない。純文学に於いてもそうであるけれど、不純であることを非難する傾向がつねにあるが、このような修道士的観点こそ俗論というもので、本業において仕事をしていればむしろサービスはしてしすぎるということはないだろう。彼女が何処で勝負をしているかということを見誤った非難は無根のものというしかない。彼女の仕事への批判をするならば彼女の楽曲について為されるべきで、見せかけしかないということが非難になるのは中身がないからであって、見せかけが有るからではない、ということをきちんと認識して欲しい。

 だからといって彼女が選んだ扮装が彼女とかかわりがないわけではない。ともかくも彼女はありうる扮装の内ああした扮装をすることを選んだのだから。だが、扮装は結果であって原因ではない。演出は彼女の楽曲の邪魔をしない限りで付録としてつけてあるのであって、それが楽しめないので有ればそれでかまわないだけで、楽曲への判断とは切り離してあるべきだろう。実際、これまで彼女の楽曲の聞き手であった人々の多くは、そうした二次的な演出について毀誉褒貶が渦巻き、そこにこそたしかにタレントとしての椎名林檎の商業的価値があったのだろうが、しかし曲を愛する人々にとってそれはどうでもよいことにすぎない。実際、批判と同じように見当違いなそうした演出への賞賛や身勝手な共感こそが、彼女とその楽曲に災いしてきたのだ。商業的流通のためにそれが不可避であり、ひきうけるべき泥であるとしても、それを決して肯定していることにはならない。肯定しているのではなく、引き受けているだけだ。

 他人としての椎名林檎とわたしはただその楽曲の購買と愛好によって関係しているに過ぎない。だから実のところ、他人である彼女の私事にとやかくいうのは無意味なことだ。個人的欲望として彼女の私事が彼女の創作にプラスすればいいと願い、個人的感傷として彼女の幸福を願うとしても、それはただ個人的な別に口に出す必要もない私事に過ぎない。だからこそ私は、彼女の私事を物語として、何かに結論を出すことが出来る決定的指標であるかのように「物語る」人々に対しては不快と批判を向けざるを得ない。そうだ。わたしはただ彼女が私にとって尊敬する他人であるから、その決断を尊重し、祝福するということしかできない。そして、それでいいのだとわたしは思う。そして、そうしたことは彼女への批判は禁止だというような愚劣なことではない。彼女へ批判が浴びせられるとして、そのとき、どういう資格での彼女について云われているのかということが明らかであるべきだということに過ぎない。作り手としての彼女について云われるならその作品の完成度だけが問われるべきだし、個人としての彼女についてならまさに口を出せる具体的な利害をもっているひとがその立場からすべきだ。個人としての彼女について、他人が他人として、何かあるべき姿というものを仮定して口を出すと云うことは愚劣なことだ。

 さて、……はからずも最初の論点に螺旋をめぐって戻ってきたらしい。

 ある個人を何か美徳の代表のようにして祭り上げ、みなでとりあえず誉めることは悪いことではないのだからという論理に乗っ取って、何か善行を施したような気になり、祭り上げた誰かの名に於いて他者を裁く。全くそのような行為を見るに付けてわたしは、いったいあなたがたは何様のつもりなのか、と思わずにいられない。誰かを祭り上げると云うことがその誰かに対して非礼なことであるということが、彼等には思いも寄らないのだ。イエスがひとを裁くなといったのは、断罪するなというだけではなく、身勝手な賞賛をするなという意味でもあったのだ。

 鉄道事故で自己犠牲によって死んだ留学生を人々が褒め称えている。かれは立派だ。だれもそんなことに文句をつける気はない。しかし同じように立派な人々は無数にいるだろう。立派な行為を手柄顔に触れ回り、聖人としてまつりあげる行為の陋劣さをわたしは云いたいのだ。田中真紀子がテレビの前で泣いて見せた。だが、見知らぬ他人の死がかなしい筈はないではないか。悲しみはそのひとと具体的に触れあった結果として生成されるものだ。悲しみはわたしがそれによって失ったものによって裏打ちされる。他人はいわば悲しむ権利などないのであり、それが死者への礼儀の筈である。現に悲しくないのに、その場で悲しくなるのは単なる感情移入の成せるわざにすぎない。そうした見せかけが悼みとして正当だとでもいうのだろうか。政治家の涙は他者の死を搾取しようと云う愚劣だとしか私には思えなかった。立派な死など無い。死はいつも下らない。かれは死なずに助けることが出来たらもっとすばらしかった。死んでしまったのは残念なことだ。死に繋がるかも知れない行為をすることは勇気ある行為であり、尊敬に値する。しかし、それによって死が尊敬に値するものになるわけではない。彼は立派だが彼の死は残念だ。それがまっとうな態度ではないか。他者の死について、軽薄に、たとえ賞賛であれ意味を与えることには、わたしは為にするものを感ぜずにいられない。あたかも彼があなた方のために生け贄の羊として死んだかのような聖別や罪責感を、感じることこそ、傲慢ではないか。他人の死のまえで絶句する礼節をなぜ人々は持たないのだろうか。 

01/01/29


 《あまねき微細な水の煌めき》

 人はだれも、たったいま生まれたばかりであるかのように、この世から去ってゆく。 エピクロス

 雑踏が耳に甦った。何をしているのだろうか、という意識。そして、目覚めはまだ遠いという畏れ。吸血鬼マルドオルは真夜中に徘徊し、うつくしく無垢な少年たちを誘惑しては、惨殺する。すべて水の微細なゆらめくような鈍い煌めき。世界は水からなっている。笙野頼子の水についての短編の異様ななまめかしくも鋭利な美しさ。雑踏が甦る。無数の悔いが精神を構成していく。意志はわたしが世界に付けた傷という傷からなっている。愛の不在。愛されることではなく愛することの不在が、このナイフに似た自己への冷静な悪意。

 散乱する意志の破片たち。意志をかきあつめ、世界を構成しなければ。世界はむしろ維持されるべきわたしの愛の対象となって、愛を構成するために世界を。水からなるこの響き。深きを。マルドロオル! マルドロオル! 雑踏の中に腹を空かせて立ち上がれない浮浪者の老女や、かつて裏切った友人の見知らぬ横顔が拡がり、愛するひとへの言葉としての疎隔、ああ、ワアグナアが信心屋になってしまうとは。

 やりきれない出口の無さ、世界の、世界そのものを為す世界の表面、その水面の奇妙な波紋、さざめき、水のざわめきはやむことがない、拡がる波紋の中にこの真夜中の明晰が、「ぼくにはどんな純潔も貞節もない」悲しみがその固有の形態をもとめてぼくから離れていく。白紙のこの無限の寛容と静けさに……甘えていることが。白紙の虚無のふかさ。愚劣なコメント、その石造りのはじがかけていき、真っ白なかき氷の雪のように降りしきる。

 失われたものを失われたものとして獲得するための、このむなしい試み。

 01/01/28


 《早稲田ハト屋敷後日控》

 偏屈な老人、奇妙な町外れの家で何をしているか分からない、そういう老人が想像と現実のはざまに、境目を縫いながら存在している、そういうイメージを誰もが知っているに違いない。だが、そうした寓話の実体は得てして幸福とは言い難い。

 一年ほど前、早稲田のバス停近くにハト屋敷という名で知られていた三階建ての家が不審火で焼けた。以前にも、ぼや騒ぎはあったらしい。住んでいる老人は、何千羽とも思えるようなハトを飼育していた、というよりも野放しにして餌を与えていた。その臭いと糞害とは大変なものであったらしい。近所からの度重なる苦情を無視してハト屋敷は断固としてハト屋敷たることをやめなかった。ために、この焼失もその恨みからではないか、といわれ、報道は老人に対して同情的ではない。いまだこれらの放火犯は見つかっておらず、老人の言に依れば警察は買収されているのだという。もとより、こうした憶測や伝聞に根拠があろうとは思われないが、偏屈な老人の妄想というだけで事を済ませては、事柄の根を見誤ることになりかねない。

 報道は決して触れようとはしないが、この焼失したハト屋敷の所在はきわめて興味深い地勢を持っていた。凹形に三方を一軒のパチンコ店に囲まれて、残された真ん中の、道に面した六分の一を構成していたのである。以前から、地上げに類した行為はあったらしい。これも伝聞に過ぎないが、現場でこの地勢を見る限り、そうした推測をしないでいることは難しい。

 今、ハトたちの姿はない。老人はすぐさま同じ土地にプレハブのような急造の家を建てた。不審火は放火とさえ断定されずいまだ真相は闇の中であり、老人と近隣との関係はあいかわらずよくない。変わったことは多くはない。現実において想像力を刺激する非共同体的な出来事の多くは忽ちに喪われ、見出されたとしてもその実体は陰鬱な日常に他ならない。この不審火にただ妄想が関わっているのか、不正や暴力が関わっているのかは部外者には定かではないし伝聞で云々すべきことでもない。

 もしも部外者に叶うことがあれば、ハトたちを想像力に於いて贖うことだけだ。

01/01/26


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