固有なものと文法についての試論

参考。過去ノ文。タブンコレハシッパイ。ムダニナガイシ。

 固有名詞はその指示対象を言葉の世界にFixするための釘である、とおもう。固有名詞から普通名詞が出来る、というのはたぶん嘘だ。普通名詞から、固有名詞がつくられる。固有名詞はたぶん多くの場合、外来語から作られる。意味があっては成らないからだ。普通名詞は対象を、その意味内容を基準にして囲い込み、指示し、指定する。固有名詞は、意味内容とは違うところで、対象をFixする。ではどのようにしてか。

 対象の同定の仕方によって、固有名詞と普通名詞は区別される。固有名詞は対象を、類的に同定しているのだ、とはいえないだろうか。つまり、同定するためには、まず対象の輪郭が、境界線が区分けされていなければならない。対象はたしかにどのような内容を持ってもいいが、その内容の位置づけられる場所は一定でなければならない。それゆえ、ラッセルの属性記述とはことなるにせよ、或る隠された属性記述があるのだ、といえないだろうか。つまり固有名詞は、その指示する対象の属性や動作や状態、意味内容を指定しはしないが、それがどのような類に属する対象であるかということ、それゆえ、その類に属する対象がもつべき個体としての基準を、暗黙のうちに指定しているのだ、ということである。

 ひとはアメリカときいて、それがあのアメリカであるといったん理解してからは、そのアメリカが、国家の名である限りで結びつけられるあらゆる述語に関係づけられても、それがありそうにもないとはいうだろうが、それが言明として意味を為さないとはいわないだろう。つまり、アメリカは国家についての固有名詞であるから、国家についておこりうることはどんなこともおこりうるし、それゆえに、アメリカが国家としてどのような状態にあるかは、固有名詞アメリカには含まれていない。しかし、にもかかわらず、固有名詞アメリカには、それがあのアメリカを指す固有名詞アメリカである限りで(というのは、同じ音を持つ別の固有名詞を想定しうるからだ)アメリカが国家であることが含意されていて、その意味では、固有名詞はまさに、意味内容を、同定基準として、持つ。だから、アメリカが笑った、ときいた人は、アメリカという語を別の固有名詞として理解するか、笑うという語を比喩表現として理解する。つまり、もとの固有名詞としてしかも笑うを比喩として理解しない場合、この文は意味を為さないのだ。

 以上のことから固有名詞はけっして、哲学的に厳密な意味で、事物の固有性、単独性、独異性を意味しない。それは、対象の類的規定なのである。だからこそ、人名、地名といったカテゴリーが意味を為す。属性規定をまったく含まないわけではなく、メンバーシップと境界画定に関する属性を暗黙のうちに含意している。

 したがって、固有名詞の単独性(ふたつなさ)は、その類のすでに命名された限りでの有限な集合のなかで、名と対象との間の一対一関係を維持し、区別するための、周辺情報によって保証される。それはたとえば「メガネ」といったあだ名のようなものだ。いったん類の内部に有限個の集合の一員として登録されてしまえば、あとは普通名詞によって指定できる。固有名詞はその定義には、不変の本質としてはメンバー資格を暗黙のうちに前提しているだけだが、さらに同定情報として、家族的類似性をもつ。つまり、登録時において、内容も実は登録されているのである。ただし、しかるべき手続きをとれば、その内容を書き換えることが出来る。というわけで、固有名詞はきわめて、会員権に似ている。固有名詞の命名の場面を、「登録」の場面を考えればあきらかだ。まだ、そのときにはそれには名前がついていないのだから、それを無数の普通名詞で同定するほかない。つぎに、そのうちのいくつかを固定して、それをメンバーシップとする類をつくる。そして、つぎに登録時のメンバーシップ以外の属性が変化したときはそれを記録して、見失わないようにする。

 結論。固有名詞は、輪郭画定と一義的同定のため、「特定の類への帰属可能性」と「登録時からの追跡可能性」を暗黙のうちに属性として含意する。依って、その意味内容は無制約ではない。


 註

 このことはちなみにジャック・デリダ(「グラマトロジーについて」)の反復可能性の議論でも確証される。アメリカはすでにして固有名詞という類のひとつであり、それゆえ、アメリカというものがこの世にひとつしかなかったとしても、ほかにもつけられえた名である。そしてそのような固有名詞はあくまでもそれ自体は固有なものではあり得ないシステムでの位置としての諸属性の主語として付与されたものに過ぎない。つまり、固有名詞はシステムに対象をFixするための釘なのだから、すでにしての対象の、言語の彼方としての反復され得ない固有性の制限、抑圧として存在するほかない。つまり、項目に記入することの暴力であり、これを原-エクリチュールの暴力という。


 以下は、興味のある人だけ、どうぞ。

 問い。役所での記入例の記入欄の文字列「山田花子」は固有名詞といえるのだろうか。

 答え。

 固有名詞の引用ではあるが、固有名詞ではない。固有名詞でなくても、それが固有名詞として機能している文脈を喚起させることが出来れば、それは引用として機能しうる。文字列「山田花子」は対象に言及していないので名詞ではないが、実在の「山田花子」という人物が記入したときには固有名詞として機能するので、コンテクストがこの想定を喚起する限りで、仮想例として機能しえている。引用はすなわち、コンテクスト以外の記号表現だけの同一性によって、意味内容として、或る別のコンテクストでのその記号表現がもちうる遂行的意味をもつ表現である。そして、この引用であることによって、記入例は、例として機能しているのである。仮想例ではなく実例によっても、言語的説明によっても、記入法をおしえることはできる。